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シュタイナー、したいなあ

シュタイナーについて思うこと

アンドリュー・ウォルパートさんの講演

アンドリューさん(エマーソンカレッジの中心的人物)の講演に行った。

●午前10時~ in いずみの学校。(ヨメも一応ついてきた
講演内容は、シュタイナー学校の教師としての心得のようなものだろうか。(→はっきりした題は決まってなかった様です)

肉体は、遺伝、環境、経験、感情、意志・・など、すべてを物語っている。なので、死を迎えた時、死んだ人は、死んだ自分の肉体を見て、3日間で人生のすべてを見る。(→死に際に、走馬灯の様に見えるものかな)

教師は、寝る前、子ども達は、まったく問題が無いというイメージを持つ必要がある。教師でなくても、どんな人のどんなイメージも現実化するため、「怖いですね・・・」と言っていた。(→イメージの仕方にコツがあるような・・・瞑想みたいな状態になるのか・・・はよくわからない。成功法則の1つやり方としてでも聞いたことがある)

教師の精神(感受性?考え?)が子どもに即座に伝わるので、例えば、何か子どもができない瞬間、態度がいくらやさしくしても、その瞬間に教師が抱く感じが子どもに即座に伝わり、子どもの人生への影響がある。

教師としては自分の行動や教えていることを如何に愛しているか?が重要で、それが伝わる。表面的にできなくても関係ない。内面では完璧に模倣している。なので、教師の内面が重要。

親と教師では、子どもへの影響が違う。子どもは、親を選んで生まれてくると言われるが、親の何を選んでいるのか?親が目指しているもので選んでいる。決して、現状の親の状態で選んでいるわけではない。なので、親は子どものために努力するのではなく、親自身が目指したいものを努力する方がよい。(→子ども中心の人生は、親にとっても子どもにとっても良くないようだ。)

キリストは、太陽存在が受肉したもの。ゴルゴダの秘蹟により、すべてしみ込んだ肉体を地中(地球)に入れることによって、太陽存在が、地球と一つになり、第二のアダムがすべての人の中に入ることとなった。第一のアダムは、神は失敗するだろうと予測して第二のアダムを精神界にスペアーとして置いておいたものである。第一のアダムとしての人間は、どんどんおかしくなって、ゴルゴダの秘蹟により第二のアダムが入ることで修正された。(→自我が入ったということかな?)

●午後1:30~ in ひびきの村。
講演内容は、共同体について。

人には、3つの仕事がある。天性の能力で簡単にできる仕事、苦労して達成でいた仕事、そして、苦労したが達成できなかった仕事。

シュタイナーは、天性の能力で、明晰な思考能力をもっており(簡単にできる仕事)、人智学という神秘学とは違う一般でも理解可能な開かれた学問を確立した(達成した仕事)。だが、コミュニティー(共同体)は達成できなかった。(ミケランジェロなどの偉大な芸術家は、ほとんど晩年に共同体を作ろうとしており、達成できなかった。)

シュタイナーは、1913年に人智学協会を創設した。その時は、シュタイナー自身は、協会には属さず、霊界から受け取ったことをその協会へ伝える精神的な存在として、指導する立場であった。しかし、協会は十分に機能しないまま混乱状態になり、事実上失敗していた。1923年に、シュタイナーは、今まで立場をやめ、自らも協会に入った。協会に加わることは、シュタイナー自身にとって賭けであった。いくら霊的なものが見えるといっても、霊的存在の後ろ盾があってこそであり、それを失うかもしれない可能性があることを自覚して挑んだ。加わったことは、霊界にも受けいれられ、霊視などの能力はなくならずにすんだとのこと。しかし、成功するかどうかわからないまま此の世を去った。(達成できなかった仕事)

共同体というのは、達成できないことをやり続けること。達成してしまったら人は何をすればいいのか?共同体により色々な形態があってよい。すべてが不完全な状態のハズ。完成された共同体は、奴隷的な関係の共同体やカリスマ的な存在を核に作られる共同体は、古い時代のもの。これからは、新しい共同体を作る必要がある。

人は、成長の過程で「家庭に依存している子ども時代」から「家庭から独立したいと思う時代」を経て、「相互依存の関係」へと変化することからもわかるように、共同体としては「相互依存の関係」が核となったものへと移行するだろうと思われる。

→私の個人的な語彙で記述しているので、コメントも参考にしてください。

(所感)
次の日は、札幌で「最後の晩餐」をテーマにした講演が予定されていたので、同じような内容かと思いきや、それぞれ違う内容であった。内容は違えど、核になることは同じことを言っていると思った。2006年4月16日イースターをどのように迎えるか?キリストの肉体の死滅の意味?達成できないことをやり続けるか意味。転生後への影響などなど。
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  1. 2006/04/07(金) 21:00:21|
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コメント

たわふさん、こんにちは。

ひびきの村でのアンドリューさんの講演、私も聞いていましたが、私が理解したことと、少しちがうのでコメントします。ちがうと言っても、大まかな所でのセンスはちがっていない、という中でのディテールの確認です。でもその部分がちがうがために、他の人と話が噛み合ないのを時々感じるので、くどく書いてみました。

まず前提として確認したいことがあります。たわふさんにとって「共同体」って何を意味しますか? 日頃から思っているのですが「共同体」という言葉は、人によってちがう意味で使われている様に思います。私は話者がどういう意味で使っているのかを勘違いしない様に注意していますが、私はこの言葉を定義できていないので、自分で自発的に使うことほとんどありません。
「共同体」の使われ方の例としては、狭義には生活や仕事などあらゆるものを共同にしようとするコロニー的なものを意味する場合もあるし、シュタナー学校では、学校のことを共同体といったりします。以前、キリスト者共同体司祭の小林直生さんは「共同体」というのは、かなりの覚悟のある人の集まりで、学校を共同体というのは違和感があるように言われていました。英語でcomunityというのと、日本語で共同体というのも、だいぶイメージちがいますよね。(というほど私は英語わからないですけど、comunityより共同体の方が、重く感じます。)

アンドリューさんは、「共同体」というキーワードから出発しながらも、ひたすら「人と人の関わり」ということについて話し、その延長上の「全人類によって構成される共同体としての世界」につなげていた、と私は受けとりました。そこを理解しないで聞いていると、狭義の「共同体」を完成することが、シュタイナーやミケランジェロが、目指していていながらなし得なかったものであり、今の我々の課題もそこにある、と受け取れるかもしれません。

具体的に、たわふさんと私の理解がちがうと思った点は、「ミケランジェロは、晩年に狭義の共同体を作ろうとしていたのではない」と私は理解していることです。以前、柳沢玲一郎さんが話してくださったことも助けになって私は理解していますが、ミケランジェロは彫刻という作品の中で「自我を持った複数の人間の調和のとれた関わり」を表現しようとし、達成できなかったのだと思います。彼自身の現実の生活において、「協会」や狭義の「共同体」を作ろうとしたわけではないのだと思います。

シュタイナーによると、ルネッンサンスの頃の西暦1413年から2160年続く第5文化期は、意識魂の時代。自分がやりたいことを意識的にやらなければ満たされない時代。そして、その次にくるロシア文化期は「友愛」の時代。自分のやりたいことを意識的にやりつつも、自分と異なるやりたいことを持つ他人と調和できる(あるいは、調和しないと満たされない?)時代・・・・とのことですよね。

ミケランジェロは、持って生まれた才能で、意識魂をもった人間の完璧な姿を、20才代で表現してしまった。そして人生の後半、複数の人間が絡む彫刻に挑戦しつつ、納得のいくものが出来ないままに、その生涯を終えたのでしょう。ちなみに、札幌での「最後の晩餐の意味」の講義のなかで、アンドリューさんは「ミケランジェロは自分が表現しようとしていることの意味を意識していなかった。(レオナルドは意識していた。)」と言われていました。つまり、ミケランジェロは自分では理由はわからないけれど、芸術家の衝動として、無意識に次の時代を感じ取って、複数の人物の調和の姿を表現したかったというのことのようです。

人類が、未だ達成できていないでいるのは、本当の意味での「友愛」=「自我持った人間が、自分の本当にやりたいことを意識してやっていながら、他人と調和できる」こと。それが世界規模で実現できるのが(あるいは実現できるための素地ができるのが、かも)西暦3573年、というのが、シュタイナーの示唆することだと、私は理解しています。それまで我々は、あと1500年ぐらい、達成したくてもがき(?)続けることなのだと理解しています。それまで人々はあらゆる試みをなしつづけるでしょう。コロニー的なものの中で理想の人間関係を築こうとするのも、協会のような団体をうまくやっていく方法を模索するのも、そのための一つの試みなのでしょうね。(でも一つの試みであって、それが全てはない。)そして、芸術のあらゆる分野でそのことは表現され続けることになるのではないかと予想します。そしてどの場合でも、個を殺した調和であっては満たされず、それ故あと1500年ぐらいかかっちゃうのでしょう。その時どのような調和をみせるのか、おそらく今の私には予想もつかないことだろうと楽しみに思います。常に進行形であるという意味で、全てが常に不完全な状態といえるのだと思います。なので「共同体というのは、達成できないことをやり続けること。」とは、どのような意味なのか、わかりません。「今の時代の課題として、人と人との関わりという意味での共同体の実現にむけて、おそらく今生きている人が生きている間には達成できないであろうことを、やり続けようとすること。」ということでしょうか?

「意識魂から友愛へ」ということを意識して世の中みてみると、本当にそうだな、と思います。というより、世の中でそのようなことが多発しているのを感じていたので、シュタイナー思想における「意識の発展」について知った時、とても納得してしまいました。

アンドリューさんは、ミケランジェロと並んで、シェイクスピアも同様だと言っていましたよね。シェイクスピア文学は全然詳しくないのですが、彼の生涯でどんなふうに作品が変化していったのか、読みたくなってしまいました。全部で37作品あるそうですが、そんなに読めないので、どれとどれを読んだら分かりやすいか、誰かあたりをつけてくれないかなあ・・・なんて、思ったりします。

ではまた、いか超でお会いしましょう。
  1. 2006/04/19(水) 13:30:21 |
  2. URL |
  3. felice #Fgs1Gh/c
  4. [ 編集]

コメントありがとうございます

ご指摘の通り、共同体を狭義・広義関係なく区別してません。

区別する必要があるのだろうか?と思っています。

>本当の意味での「友愛」=「自我持った人間が、自分の本当に
>やりたいことを意識してやっていながら、他人と調和できる」こと
を目指しているだけです。

結局、「他人」が、1人の人でも、団体でも、日本という国家でも、人類という全体でも、同じだと考えています。(私と他人1人との関係も共同体と考えています。)

ある団体にとって調和するが、日本にとって調和しないことがあるとすれば、それは本質的に調和できることではないということで、どんな相手であろうと調和できることを常に心がけることで、狭義・広義関係なく共同体として調和できると考えています。

>以前、キリスト者共同体司祭の小林直生さんは「共同体」と
>いうのは、かなりの覚悟のある人の集まりで、学校を共同体と
>いうのは違和感があるように言われていました。
小林さんは私は面識はないのですが、この文章から推測すると、「共同体を作るぞ!」と言ってつくる共同体は、かなり覚悟が必要だということではないでしょうか?(多人数だと特に)
私のイメージしている共同体は、自分のしたいことをしていたら、自然にあるかたまり、団体ができ、それぞれが自立しながら相互的に依存した関係ができあがるというものです。(意識して共同体と呼ぶ必要もないかもしれません。)

ですので、最初から共同体を目指すと、どのようなルールが必要か?とか、どのような経済的関係がよいか?などなど、考える事ばかりで、うまくいくかどうかはわからないし、それを試してみては失敗を何度も繰り返さなければならない。言ってみれば、本当にやりたい事はなんだかわからなくなってしまう、無理をした共同体ではないでしょうか?

「共同体(学校)が、まず、ありき」ではなく「本当にやりたい事(精神の自由)が、まず、ありき」ではないかと思うのです。すでにできあがった共同体に入るということではなく、知らぬ間に、共同体の一員になっていたという事が理想かなと思います。(現実的には、やりたい事をし続けることが難しいのでなんともいえませんが)

意識して共同体をつくるのであれば、同じ目標をもった少ない人数で共同体をスタートさせ、試行錯誤してある程度骨格・基礎が出来上がれば、人数を少しづつ増やすというのがリアリティーがある共同体の作る方かもしれません。

今の時代であれば、どんな共同体も不完全になるとは思うので、共同体を意識して作ること自体が無謀といえば無謀なのでしょう。といいつつ、このようなことも考えているのですが。
http://blog.press328.com/life/community/community289.html

>シェイクスピア文学は全然詳しくないのですが、
私はもっと詳しくないです。年代順に読んでいくというのはどうでしょう。(最近、図書館にリクエストばかりしている私でした・・・)
  1. 2006/04/19(水) 16:22:23 |
  2. URL |
  3. たわふ #-
  4. [ 編集]

私の中での共同体のイメージ

上記コメントをしてから、しっくりこないと気になっていたので、追加コメントします。(厳密に答えてないですね)

私の中で共同体のイメージは上記コメントどおりなのですが、feliceさんのコメントを何度か読んでいるうちに、自分の中で無意識に共同体には種類があると考えているということに気づきました。
1)ある目的のための共同体(一般的には単なる団体・会社)
2)生活を共有している共同体
(これが狭義・広義になるのかな?)

1)も大きな視点では、最終的には、生活を共有しているのですが、2)との違いは、直接的な生活を共有しているかどうかです。2)の場合の代表的な例は、家族でしょう。キャンプヒルも生活を共にして、障害者の世話をしているので、2)に入ると思います。もっといえば、2)については、他に例を挙げることができないともいえます。(有名なところはあまりなさそうな。フィンドフォーンもそうですね。)

>以前、キリスト者共同体司祭の小林直生さんは「共同体」と
>いうのは、かなりの覚悟のある人の集まりで、学校を共同体と
>いうのは違和感があるように言われていました。
なので、小林直生さんのいう共同体は、2)になるのであって、学校は本来1)になると考えているのでしょう。

学校を2)にするならば、成り立つとは思えないですよね?成り立たせようと思えば、先生は先生だけをしているわけにはいかない。いわゆる学校での先生的な立場は、容認できない状態になると思います。先生も畑仕事や他の仕事をすることになることでしょう。なので、学校という形態は2)の共同体ではあり得ないとなります。
  1. 2006/04/26(水) 11:58:01 |
  2. URL |
  3. たわふ #-
  4. [ 編集]

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