FC2ブログ

シュタイナー、したいなあ

シュタイナーについて思うこと

「あしたの国」からの回答

(2005年7月現在でのことであり、今後、集まる人によっては色々な広がる可能性はあるとは思う。状況が変われば変更予定。)

問い合わせに対する回答を一言でいえば、
社会三層構造について具体的なものは何もないということだった。

「Blogには、回答原文は載せないで、私が受け取った内容で書いてください」とのことなので思ったことをそのまま書かせていただきます。

「NPO法人あしたの国まちづくりの会への参加」の参加とは、回答のニュアンスからして「自由に来て自由にやってください。各自、自分が考える社会三層構造を目指してください。」というような内容だ。

特に、参加に審査があるわけでもなく(「精神の自由」だから当たり前といえば当たり前だが)、登録のみを行い(6000円は意味不明)、なにか手伝ってほしいときに依頼が来るが、それが有償か無償かはやはり各自の判断(ここは、「精神の自由」ではなく、「経済の友愛」になるのでは?)になるようだ。

農場に関しても、独立採算で自営で行っているようだ(「ぽっこわぱ耕文舎」に三日間の研修とはそういう意味か・・・)。農場を主軸にすれば、社会三層構造を実現する有効な具体案の一つだと思うのだが。すでに「ぽっこわぱ耕文舎」は、厳密に社会三層構造ではないにしても、そのような方向で動き始めている。

私は、一応、HP製作を仕事にしているので、この「あしたの国に参加するには?」のページを見た時、混乱した。

このページは、どう見ても、お金を振り込んでもらうことしか考えていないページである。振り込み方法などは、別Windowが開いたりして説明が丁寧にされているのに、肝心の内容がほとんどない。

社会三層構造を目指そうとする団体が、このようなページをつくるのか?と混乱したのだ。申し込みをする人がどのように感じるかをイマジネーションできないのか?どうとでも解釈できるので問い合わせをした次第である。

サイト全体をみても代表の名前ばかりが目立ち、やはりどこも同じかもしれない。シュタイナー教育が主軸になっている以上は、同じにならざるを得ないのかもしれない。社会三層構造は、社会三分節化運動であって特定の団体のみに適応させること自体がおかしいのかもしれない。はたまた、日本では難しいのか?(海外では、実現していると言われている「キャンプ・ヒル」がある。やはり農場はある。)

集まる方々によって烏合の衆になるのか?理想の社会の雛形となるのか?今後の展開を見守るしか私にはできないことを残念に思う。(経済的に参加することが難しい)
関連記事


  1. 2005/07/08(金) 17:04:18|
  2. 地域通貨・経済の友愛|
  3. トラックバック:0|
  4. コメント:10
<<射影幾何学入門 | ホーム | 「あしたの国」への問い合わせ>>

コメント

共同体

はじめまして。エコビレッジなどの共同体に関心があり勉強しているものです。

私も、「あしたの国」主催の行事に参加した後、「あしたの国」に関わる事に関する問い合わせをしたことがあります。
ただ、私の問い合わせの内容は、たわふさんとは違っていました。私の問い合わせは、「この共同体のことを考えた時、私はこういうことを提案したいと思います。」という事と、「おそらく現在取組中であると思われる是是の事柄について、こういう提案があるのですが、どう思われますか。進行状況とあわせてお聞きかせ願えれば幸いです。」ということでした。「共同体」を自分の家族と同じに考え、さらに、自分自身のこととして考えた時、参加方法どうこう以前に、自然とそういう発想になったのです。

私は、共同体に参加する人間が、「共同体からお給料をもらう」という発想をしている限り、その人は本当の意味でその共同体のメンバーにはなり得ず、いつかはそこを去ることにならざるを得ないと思います。何故なら、参加する(しようとする)共同体を自分自身として捉え、行動することが、共同体参加に絶対的に不可欠な態度だと思うからです。(家族のために働いて、「お給料をもらおう」と考えるでしょうか?)それが無いと、あたかも「その共同体の本体」という実態がどこか別のところに存在するかのような幻想を抱き、感情的な批判を始めたり、裁いたりしてしまうのです。それは、自分はそこから分離した存在であるとどこかで考えているからに他なりません。そして、自分に直接関係しない他人の問題にまで口を出し始め(それは、自分が擁護しているつもりのその相手の尊厳を認めていない、尊重していないということです。)、まるで自分が正義であり、人を裁く権利があるかのごとく考え始めてしまう。これは、現在の人間のレベルにおいては必ず存在する問題だと思います。

自分が他者のためにどこまで献身出来るのか、それを苦しみながら学ばせてもらえる機会を得られる場所、それが共同体だと考えます。「あしたの国」に関していえば、資金はもちろん全く足りない。出来上がっているものなど何も無い。だから、住人として住んで苦楽を共にしようという賛同者はとにかく今は大歓迎。その意味するところは、当然ながら自分の資金で敷地内に土地を借りるなり権利を一時的に買うなりして、自分の力で住居を整え(賃貸? いったい誰が建てて貸してくれるというのでしょう。むしろ、そのスポンサーをみつけようという発想が必要。さらに、自力で整えた住居は誰かに譲る自由はあるが、いずれは普遍的存在としての共同体に献上するつもりで建てる。)、自分の力(または仲間とともに)で経済活動を生み出すことによって、共同体に貢献しようという人々を募集しているのです。もしくは、創立される予定の学校に授業料を支払うというかたちで共同体に参加しようとする人々。つまり、そこに何か既存のものが存在し、有償で働き口を提供してもらえる場所(そんなご都合主義的思想ではたとえ共同体に参加をしても上手くいかないと思います。)ではない。もちろん、共同体運営上の必要性と個人の必要性が一致した時には、その個人の生活費を共同体の運営収入で賄うという決定が為されることはありますが、あしたの国に関しては、収入は無い状態ですから、「賃金はもらえるのか」という発想自体がナンセンスだと思います。自分のこととして考えた時、共同体運営の為の収入が今、足りないのならば、自分はほかで働いて生活費を稼ぎ、共同体運営のためには無償で働こう、と考えるのが自然だと思います。実際、そのように運営されている世界的な慈善活動団体の共同体はあります。そこでは、無償で働く人々が献身的に働き、もし有償で働いていたらおそらく成し得なかったであろう奇跡的で偉大な仕事を沢山具体的なかたちにしています。

エラそーな口をきいてごめんなさい。でも、「自分が関わる共同体に失望した」という発想にちょっと驚いたので。失望というのは期待がなければ起こりえないし、いったい共同体に何を期待し得るというのでしょうか(代表者などの個人に対する失望は、感情のレベルではあり得るでしょうが)。それは利己的で他力本願な幻想ではないでしょうか。
  1. 2005/07/19(火) 00:31:11 |
  2. URL |
  3. うさうさ #PSnYe7JY
  4. [ 編集]

偉大な事をしたいわけではないですが

何が望みかといえば、
献身的な事はしたい。
だが自己犠牲(「精神の自由」を犠牲に)はしたくない。
ということでしょうか?

ご意見頂いた内容で貢献しようとするならば、ある程度の経済的な余裕がないとできませんよね?例にあるように、家族内で例えるならば、自分の子供が成長するため世界を旅したいから(「あしたの国」が社会三層構造をしたいから)、父ちゃん・母ちゃん、無制限に金をくれ!(いつ実現するか分からない社会三層構造実現のために金や労働を奉仕してくれ!)と言われて、「はい分かりました」とは答えられないのでは?親は子供の成長は願いますが(社会三層構造の実現は願いますが)

我が家も経済的に苦しいことから質問を考えました。別に依存したいわけではなく、「社会三層構造を目指します」と言っている以上、社会三層構造を前提とした具体的プランがあるのではないか?そのプランが参加できるか内容か確認したい。と思いましたし、また、プランがあれば実現性を考慮したかったからです。ですが、実現性は今のところ何もない以上、経済的によほど裕福でないと無理だと思ったわけです。(又は、独身とか単身ならばよいですが)

やろう!といっている発案者が、具体的に何も考えていない。だから、そこに集まった人たちが各自考えてください。では、結果は、烏合の衆になるか、発案者の言い様に使われるかのどちらかになるのではないかとも思うからです。

社会三層構造は、社会の構造(共同体の構造)についてのみを提唱しているのであって、具体的に何をすればとは何も書いてないのです。何をしてでもできる可能性があるとも言えます。何も案が無いのであれば、まとまりがつくとは思えないです。キャンプ・ヒルは、障害者治癒(?)という具体的なプラン(経済的な部分も含め)があったのではと推測してますが。

「利己的で他力本願な幻想」は「あしたの国」では?

うさうささんは、ご提案した内容で何か進捗状況をお聞きになりましたか?できれば、提案内容などをお聞きしたいです。
  1. 2005/07/19(火) 02:14:49 |
  2. URL |
  3. たわふ #-
  4. [ 編集]

長文にて失礼いたします。

私が投げかけたぶしつけな私見に丁寧かつ誠実なご返答をありがとうございます。

真の献身は犠牲と共生し得ないと考えます。
真の献身は何も犠牲には出来ないはずです。
犠牲を伴っている(と考える)限りそれは真の献身ではない。
ましてや、精神の自由を犠牲にすることなどは起こり得ないと思います。
何故なら、真の献身とは完全なる自由意志のもとに行われる行為であるからです。
真の献身には、経済的、物理的な状況も、環境も、その他諸々の事情も、実際には、本当のところは、突き詰めれば、一切、全く、微塵も、何も、関係しないからです。真の献身にはなんの執着も捕われもないのです。

かなり観念的な表現になってしまいましたが、献身は偉大だとか偉いとかそういうことでは全くなくて、私は他者であり、他者は私である、ということを本当に知ることだと思います。私は地球であり、地球は私である、「社会全体が幸せでなければ個人の幸せはあり得ない」という宮沢賢治の言葉は、きれいごとでもなんでもなくて、抽象的でもなんでもなくて、実際に現実的にそうなのです。何故なら、世界の精神のレベルで起こっていることは、私たちの日常に直接的に実際的に作用しているからです。古代から現代まで、多くの賢者たちが繰り返し繰り返しそのことを人々に伝えてきていると思います。同時に、「個人の幸せがなければ社会全体の幸せもあり得ない」のです。そのことを実現するための、現代の人間にふさわしく用意されているのが、共同体という繋がりのあり方なのです。私はそう考えています。

その共同体のプランの内容やそのプランの実現性を考慮して参加を決めるということ、その考え方それ自体が幻想だと私は考えます。それは他者と自分との分離から来る発想です。分離は幻想です。本当の私たちは何からも分離してなどいない。(例えば、もし世界と私が分離しているのなら、どうして水や空気や大地は私をこんなにも愛してひたすら与え続けてくれるのでしょうか。自分の廻りの人々も環境のうちです。世界に愛が溢れているからこそ世界は今日も成立している。)共同体に関わるということは、会社やプロジェクトの将来性に投資するというような発想とは対極にあります。私たちの会社に奉仕してくれ、とも、金をくれ、とも、あしたの国は決して言っていないと思います。あしたの国のやり方が、他力本願とも利己的だとも私は思いません。ただ一緒に苦労してくれる仲間を求めている。同時に、そうやって自ら望んで(共同体に実際に参加して)苦労しようという人々に、世の中の人々にすべてのものは繋がっているのだということを思い出させてくれるために苦労をかって出ようとしている(という言い方も出来る行為という意味で)人々に、エールを送り応援しよう、お金を寄付しようという、そういう人々を求めている。

「理想の実現の為にお金をくれ、と言っている」という発想も、「実現しそうな可能性が高いようなら奉仕しようかな」という発想も、発想の理由は「損得」であり、搾取の発想です。現代の搾取する(しあう)社会構造とは違うところで仕事をしたいと願う人々には、そういう発想はあり得ない。

ご質問にお答えすると、まず、返答は一切ありませんでした。そして、行事やイベント(当然、資金集めのためにすべて有料)の参加の案内ばかりが送られ続けてきています。(私の提案内容については控えさせていただきます。)目の前のことに捕われすぎてしまっていて、本当にいちばん大切なものを見失いかけているのかな?、という印象を私は持っています。そして、この共同体づくりの衝動が本当に霊界から降りてきているのか、感情の部分が主になっていはしないか、それこそが大きな大きな大きな問題。そこがなければ人智学(だけではないですが)の共同体であり得ない。実際、日本を始め、世界の人智学運動自体が、感情に支配されているとしか思えないような問題が多過ぎるような印象ですから、人智学は現代の一般的な人類には未だ早過ぎる教えだと思っています。(シュタイナーにはそれは重々わかっていたはずだと私は思っています。「いか超」読めばわかります。)ましてや、社会三層構造の実現は、悟性で出来るものでもないと思います。私も、あしたの国には何もない、と思います。だから、共に考えよう、学ぼう、と提案しているのだと思います。しかし、そこで絶対的に必要なのは、関わろうという人々は、共同体の精神の部分にそれこそ死にものぐるいで取り組むことです。それ以上に重要なことなど無い。

そして私は、あしたの国のために祈ります。あしたの国の幸い、つまり、感情を行為の動機としない、真実への道を、祈ります。それ以外は出来ません。それは、私という人間が、真実への勇気を持ってその道を進んでいきたい、日々を本当に深く真摯に生きたい、でも出来ない、でもそうしたい、うーうー、という、どうしょうもない未熟な人間だから。そしてその方法も自分に向いている方法というのがわかっている。だから私にとっては、少なくても自分と同じ方向を向いている、向こうとしている、もしくは、向こうとしても向けない自分を知っている、でも向こうとしたいんだ、出来なくてもそれを死にものぐるいで目指したい、血と涙を流しながら! という、そんな仲間たちと仕事をすることが絶対的に必要だとわかっているからです。口や意識上ではそう言っていても、実際は、無意識レベルでは、全くそうでは無いという人々もいます。それに関しては、「肌でわかる」「感覚でわかる」「なんとなくわかる」「守護天使が教えてくれる」としか言えません。(あくまで、自分にとって、です。それは人によって様々でしょう) だから、今のあしたの国は、私が仕事を自分の自由意志で成し遂げることが出来るところではないのかな、この今の自分の未熟さではのう、いた仕方あるまい、と感じています。

キャンプヒルの発足は、ケーニッヒさんの真の献身が絶対的な衝動としてありました。その真の献身を、彼は障害を持つ人々から教えられたのです。医者として生きてきた彼の中に、自分のやるべきことについての深い深い認識が生まれたのです。それがすべて、愛こそすべて、そこに叡智と賢さは必要ですが、打算は入る余地はありません。

キャンプヒルの現状も現在は実に様々でしょう。個々によって、すべてにおいてずいぶん差があるようです。どこのキャンプヒルも、ある人にとっては天国に、ある人にとっては地獄にもなり得る、今の人類のレベルにおいてはきっとそれしかない。よっぽど注意深く人々が高みを目指して日々真剣に真剣に生活していない限り。(そういうキャンプヒルもないことはないみたい?)そんなすごいところはあるのでしょうか。地球上の何処かにきっとあるでしょう。真剣に望んで求めていれば、きっといつか経験出来るでしょう。自分が怠けていれば無理でしょうけど。(そうなんだよね~、がんばろー!・・・)意外にもすぐご近所にあったりとかね。自分の家族とか。またはもう出会ってるけど気づかないとか。やっぱり自分自身の内面にそれを発見して満たされて、ついには外に求めなくなるとか。きっと人によっていろいろです。

あ~、長々と失礼しました。私は弱い人間なので共同体かなり絶対必要です。今生の日々を生きていくためには。そうでなければきっともっと多くの仕事(奉仕)を今世で出来ただろうになああ、とか思いながら、共同体研究続けます。
  1. 2005/07/21(木) 00:57:40 |
  2. URL |
  3. うさうさ #PSnYe7JY
  4. [ 編集]

「死にものぐるい」に憧れますね

献身的と書いてからちょっと違うかなとは思ってました。ですので
なにが望みかといえば
「精神の自由」があるところへいきたい。
ということになります。

>「社会全体が幸せでなければ個人の幸せはあり得ない」
>「個人の幸せがなければ社会全体の幸せもあり得ない」
全くその通りです。

>その共同体のプランの内容やそのプランの実現性を考慮して参加を決めるということ、
>その考え方それ自体が幻想だと私は考えます。
うーん?そうなると存在する共同体すべてに参加しなくてはならないのでは?

>分離は幻想です。
その通りですが、分離するように教育された身ですので。

>共同体に関わるということは、
>会社やプロジェクトの将来性に投資するというような発想とは対極にあります。
共同体に関わるといっても、スタッフとして自分の全時間を使える人と、一部的に関わるということがあると思いますが、「やりたい」からやるとは思います。

>私たちの会社に奉仕してくれ、とも、金をくれ、とも、あしたの国は決して言っていないと思います。
確かに。
>あしたの国のやり方が、他力本願とも利己的だとも私は思いません。
特にプランがない状態で、集まった人次第で決まる。それはそれでよいかもしれませんね。ただ、経済的には相当かかるとは思います。

>ただ一緒に苦労してくれる仲間を求めている。
>同時に、そうやって自ら望んで(共同体に実際に参加して)苦労しようという人々に、
>世の中の人々にすべてのものは繋がっているのだということを思い出させてくれるために
>苦労をかって出ようとしている(という言い方も出来る行為という意味で)人々に、
>エールを送り応援しよう、お金を寄付しようという、そういう人々を求めている。

そうでしょう。

>現代の搾取する(しあう)社会構造
「自分のために働いている」と思っているだけで、お金の流れを純粋にみれば、ほとんどの人は「他人のためだけに働いている」。例えば、工場で何かの商品を組み立てている人は、その商品を自分のために組み立てているのではなく、商品が必要な人(お客さん)のために作っているのです。その結果、お金という形で、返ってくるだけです。(お金を稼ぐために働いているとおもっているのは、人間だけ)。その製品が売れるまでには、設計者・部品の調達する人・組み立て後のお店への配達する人・お店で売る人などすべてが関わってようやくお客さんの手に渡りますので、お金によって分配されているわけです。ですので、経済の方が、人間の意識より進んでしまっているのが現状の社会です。搾取しているように見えるのは、構造の問題ではなく、人の問題ですね。

>「損得」であり、搾取の発想
損得が搾取になるところが飛躍している気がします。
私は、
「精神の自由」があるところ行きたい(得)が
「精神の自由」のないところへは行きたくない(損)。
望みがあれば、「損得」は発生するのでは?

>返答は一切ありませんでした。
そうでしょうね。
>(私の提案内容については控えさせていただきます。)
残念ですね。具体的であれば、共同体を作ろうとしている人には、ヒントになったかもしれないのに。
内容にもよりますが、部外者の意見はあまり聞いてもらえません。何せ、共同体内部の実情を分かってもらえていない人の意見は、あまり役にたちませんから。(提案を受け取った方は、否定することも肯定することもできない。)だからこそ、私は提案ではなく、答えられるであろう質問にしました。少しでも回答があれば、内情が分かるので。

>死にものぐるいで取り組むことです。
「死にものぐるい」に憧れますね。「精神の自由」であれば、苦しくはなく楽しいとは思いますが。全く個人的時間はないでしょうが、逆にそれが楽しいと感じられるんでしょうね。

>ケーニッヒさんの真の献身が絶対的な衝動
そんな衝動感じてみたいですね。

今日、イギリスのキャンプヒルに行った人の話を聞いたのですが、イギリスは、子供が5人いれば、シュタイナーの共同体みたいなものはすぐに作れるそうです。国や企業からお金が頂けるような国民性らしいです。日本では難しいでしょうけど。
  1. 2005/07/22(金) 09:46:38 |
  2. URL |
  3. たわふ #-
  4. [ 編集]

なぜ死にもの狂いになれないかを死にもの狂いで考えると

きっと死にもの狂いになれるかもしれません。
(考えて、行動する(身体を使う)、また考える、という条件付き)

「損する」ってどういうことなんでしょうか。「損する」って、「得るものより失うもののほうが大きい」ということみたいなんですけど、何かを「望む」時に、その望みにかなったものでないと、それは「損」で、かなったものなら「得」という考えは、つまりどういうことなのかなあ。「望み」が成就したら「得」、しなければ「損」ということかなあ。でも結局それは、とどのつまりは個人の受け取り方だと思います。そりゃそうですよね、それ以外あり得ない。実際に、損うや得が存在するわけではないのだから。(物質的なことはこの場合は話に含まれていない。)

「精神の自由」があるところ行きたい(得)が
「精神の自由」のないところへは行きたくない(損)

これは括弧内の部分が私には全く理解出来ない。すみません。得だからそこへ行きたいという発想が無いのでわからない。何かを「得よう」という望みがある場合には、そういう考え方になるのかもしれない? おこがましいですが、私には、人生に対して何かを「得よう」「得たい」という発想が根本的にほとんど無いようなので、そうなのかな、きっと、と、たわふさんの考えを理解しようとするとそんな感じでしょうか。得たい、と思ってると苦しいと思う。それは執着だから。自分では無いつもりでも、どこかに執着があると自分が苦しいからわかる。なければ苦しみは生じない。憎しみも生じない。悲しみや哀しみはあるけれど。

さて、おっしゃる通り、「損得」が搾取にイコールではない、ということはその通りだと思います。でも、おそらく一般的には、人が損得で語る時には、何か対象があるわけで、「得した」「もうけた(金銭的にではなく)」という時、どこからか何かが「損なわれて」いる状態であることが多い(必ずしもそうではないが)ので、そう書きました。これは、たわふさんと私の「損得」に対する捉え方の違いがあるためで、たわふさんはもっと広い意味での「損得」の概念をお持ちのようです。学ばせていただいてありがとうございました。

「他人のために働くこと」とは?
これもその人の捉え方次第で紙一重で全く逆さまの考え方になる。
もしかしたら、たわふさんは会社にお勤めの経験が長いか、もしくはものすごく真面目に会社で働いていらしたことがあるのかな、と思うのですが、そうですか?

マザーテレサやガンジー、それにきっとケーニッヒさん(他の沢山沢山の偉人たちも)も部分的にはそれに近かったのでしょうが、彼らは、「他人のために働くこと」以外はほとんどしなかった、と言えるかもしれません。その彼らの、「他人のために働く」ことと、会社人間が自分のためとか家族のためとか思いながら、実際は、(たわふさんの言う)「他人のために働いている」ことと、同じですか? 動機、内容、考え方、仕事に対する姿勢、生き方、廻りに与える影響、どれをとっても全く違うのは明らかです。

「自分のために働いている」ことをお金の流れから純粋に見ればそうでは無いのである、という考え方を、きっと私がたわふさんほど深く理解出来ていないからでしょうけれど、それは何のために、何を考えるために必要な見方なのでしょうか。労働の対価がお金という形で返ってくるのだ、その利益に関わる組織や人々でそれを分配しているのだ、という考え方は一般世間の常識でしょうが、それを、それを消費する(需要がある)のは他人だから、結局は他人のために働いているに過ぎない、と結論づけるのは単純であたり前。それが、何故、「お金のほうが人々の意識より先に行っている」ことになるのかわからないのですが、よろしければ、もう少しそこのところを説明していただけますか?

あしたの国への「提案」は、具体的なことを提案したというより、共同体づくりには一般的にまずこういう点に留意する必要があると思うので、そこのところは今どうなっていますか、何か進行していますか、それについて関心と情報がありますので、それに関して知りたいと思うのですが、というものでした。こういうことしてみませんか、というような提案ではなく。相手の実情を詳しく知らないのに、そんなこと言えません。

ところで、こういう場での引用符付きの返信はあまり心地良いものではありませんね。私が、メールでも事務的なこと以外での引用符の使用は嫌いなので、そう感じるだけなのですが。引用符を使わないと話の内容がわからないし伝わらないという程度(当人たちも、もしいればですが他の読んでる人たちも)だったら、返信はいただかないほうが平和なのかも。いや、きっとたわふさんが、私のコメントを読んで、「どうやらこの人には自分の意図することが全く伝わっていないみたいだから、引用符を使って手取り足取り返信しないといかん」と思われたからかな。(あ、全く皮肉ではなく。自問自答しておるだけです。)

「精神の自由」のあるところを経験したことあります。完全になんの抑圧感も義務感も感じずにすむ場所と人々。そこには何があったのか。お互いを完全に尊重しあう人々。そこに生み出されるのは、平安、調和、解放、自由、静寂。それは、途方もなく深い郷愁でした。そうか、本当はこういうところにいたんだ、故郷(霊界なのか古代の前世なのか)では、と感動しました。またいつか帰りたい。(同じ場所にという意味ではない) 

でも、そこも経済活動は順風満帆というわけではなかった。人々は、ほぼ無償で献身的に働いていた。経済状況が、私の知っている慈善団体(献金だけでやっていける状態)とこうも違うのは、いったい何がそうさせているのか、人々が献身的に無償(とほぼ無償)で働いているのは似ているように見えるのに、いつも考えていました。私なりに悟ったことは、「ほぼ無償」と「無償」の間には大きな大きな隔たりがあるということ。似て(いるように見えるだけだが)全く非なるもの。「有償ボランティア」(実は単なるていのいい激安労働力としての消費。需要と供給の両方ともに。)なる滑稽な考え方と同じ。それは天と地ほどにも違うことに違いないのです。この辺りが当面の私の共同体における経済活動研究のテーマです。浅はかな自分には、まだまだこれからの研究ですし、きっとこれは、真の社会三層構造の実現(今の人類には、まだまだずっとずっとずっとずっとず~っと先)のために人類が通らなければならない過程なのだろう、とか考えています。
  1. 2005/07/23(土) 01:20:31 |
  2. URL |
  3. うさうさ #PSnYe7JY
  4. [ 編集]

引用はイヤですか

引用がイヤな人がいるとは想像しませんでした。イヤな思いをさせて申し訳ないです。ヨメに聞いたら、ヨメもイヤだと言ってました。

私としては、引用するのも引用されるのも好きです。なぜならば、文章だけの会話ですから、ある部分は伝わったけど、ある部分は伝わってないとかがはっきりするからです。重箱の隅をつつかれるような感じはしますが、その細かい部分まで注意して読んでいるとも感じますし、その細かい部分をどのように感じたかが分かるので、文章でシェイクハンドしている気持ちになります。(研究には重要では?)私がロジック的な言い方が好きなだけですが。

損得については、共同体に参加する前に判断しようするという部分に限定しています。実際、損をするか得をするかなどは分かりません。した後でないと。参加する前に、精神の自由があるのか?(現状関わっている共同体は、事実上ないので)、貢献できるのか?必要とされるだろうか?どのようなことを期待されるのか?など、双方にとって損にならないかを確かめたいという意味で「損得」という言葉を使用しました。

結局のところ、共同体の運営は最低限の部分でこのようになければ難しいだろうという価値観があって、それと相容れられるかどうかを判断したいのですが、関わってみないと実際のところは分からないので、同じといえば同じですが、「あしたの国」については、経済的についていけない事だけはわかったので良かったです。

「他人のためだけに働いている」については、シュタイナーの受け売りです。「社会の未来」の中にありましたので知っていらっしゃると思って書いたのですが、詳細はよんでください。私の解釈では、ある日突然、全世界のお金がなくなったとしても、今している仕事を同じようにすれば、同じように生活ができる。全ての仕事が、無償ボランティアとなるわけで、それでも、支障なく暮らせる可能性がすでに、お金の流れの中にあると言うことだと思います。

「精神の自由」を感じたところにいたのですか。私も感じてみたいです。

やはり、経済的なところが問題でしたか・・。ガンジーも農作物を荒らすサルに困っていたらしいですが、宗教上どうしようもない。ですが、最終的には、「サルだけはいい」と言っていたらしいです。また、寄付を強制するようになったらしいです。ダライ・ラマも、何百万か払えば、オウムのような人でも直にお会いできて、握手や写真も一緒にとれるわけで(お坊さんに聞きました)、そんな話を聞いていると無償・有償については、好きにすればいいと思ったりします。

お金の話は、人間味がでておもしろいというか、実情が分かりやすいので、質問とか問い合わせとかでは有効ではないかと思っています。(このBlog内の記事にも書きましたが「お金=自我」だと思っていますし。)

お金に対する思いや考え、他者や社会に対する思いや考えで、自分に入ってくるお金が変わるのではないかと思います。無償だからすばらしいとは思いません。現状社会でも無償で生活がなりたつ可能性もあります。それは、その人がうまく回っている人だからだと思います。そう思ったのは、ガンジーの話を聞いたお坊さんを見て思ったのですが、そのお坊さんはうまく回っている人だったので。

うまく回るように、日々精進するしかないなあと思います。
  1. 2005/07/23(土) 11:27:40 |
  2. URL |
  3. たわふ #-
  4. [ 編集]

コメントを読ませてもらって

うさうささん初めまして。

 たわふさんとのやりとりおもしろく読ませてもらっています。

 私は正確に何かを伝えるというのがとても苦手なもんで、これから書かせてもらうこともハブさんの寝言だと思って、愛情深く読んでもらえればありがたいんですけどね。

 今、考えているのは「労働の意味」ということです。
もともとは使用価値を産み出すもので、それが商品社会になってからは交換価値を産み出すものに変わってきたというのは、マルクスさんが資本論の中で厳密に解き明かした事なのだと思います。

 しかし、労働のもう一つの大きな意味は労働を通して労働する人自体を変える、進化させるということだと思います。

 たわふさんが「お金」のことにこだわるのは、お金がある程度なければ、現実のこの社会の中で生活できないということがあるのだと思います。
 出家の身であれば、修行だけで、ほかのすべては托鉢によって賄えるのかもしれませんが、在家の身で家族を抱えている身では、ある程度の現金収入がなければ不安があるのでしょう。
 そこである共通の思いのある共同体で、ある程度の現金収入が保障される事を望まれるのも、わかるような気がします。(このへんもまったくハブさんの勝手な推測で書いているので、たわふさんの思いを確認してるわけではないので寝言だと思って勘弁してほしいのですけどね)

 ここでのお金は労働の対価としてあるのだと思います。

 それに対してうさうささんの言われている労働の意味は、まさにその労働を通して自分が変わるということに意味があることで、それは奉仕というより修行に近いものなのではないかと思っています。

 私にとって今、生きている意味というか、生きがいというようなものは、飯田史彦さん流に言えば「魂の成長」なのでしょうし、大村祐子さん流に言えば「精神の進化」なんだと思えています。

 私も自分が弱い人間だと思っていますので、共同体というものに大きな期待をもっています。そこにおいて重要な事は「すべての自由な個人が愛でつながれる関係」を作ることだと思っています。
 そのときにお互いの話をいかに受容的に聴きあう事ができるかが大きなポイントであり。
 その共同体において、「固定化したリーダーは必要ない。」と言えるリーダーが必要なのだと思います。

 そういう意味でキューバのカストロさんや「みんなが主役で火力を止めた」(中部電力の200万キロワットの石炭火力の計画を粘り強い市民運動で白紙撤回させた時の記録)の医師、乾達さんなどの生き方はおもしろいと思っています。

 シュタイナーを学んでいる人たちと話をしていて気持ちがいいのは、よく話を聴いてくれる事です。

 大村さんも子安さんも鳥山さんも話をよく聴いてくれる方達だと思っています。

 ただ共同体、あるいは組織の代表者としては、聴くばかりではなく、その組織を運営していくための強さのようなものも期待され、そのあいだでそれぞれしんどい思いをしているんだろうなと、これまたハブさんの勝手な推測です。

 私としてはひびきの村にも、あしたの国にも、賢治の学校にも、それぞれ期待しています。自分の関われる範囲で関わっていければと思っています。

 とりとめもない寝言でした。こんなんでよければこれからもよろしく。
  1. 2005/07/26(火) 17:34:24 |
  2. URL |
  3. ハブさん #-
  4. [ 編集]

少し補足

お金にこだわるというよりは、現実化にこだわっているという感じです。

「すべてはつながっている」のに、現実社会とは全く正反対な価値観をもった共同体が存在できるのだろうか?

「分離」をしている意識の人でさえ、つながっている。(分離していることを自覚できない人も多いと思う)

そんな現実から「いかに」してが重要であり、最終の目標だけを語るのでは意味がない。「あしたの国」はシュタイナーの受け売りをそのままだけに近いと思う。受け売りだけでは、存在価値がない。受け売りの目標だけ掲げた共同体は存在価値がない。独自の何かを現実に、表現・行動・発言するものがなければ。少しは表現しているとは思うが。存在する以上は。使命があるのであれば、進展もあるはずだが・・・。(始める時の本当の意図が何かによると思う。なぜ今なのか?なぜその方法なのか?その中に本当の意図が隠れていると思う。)

うさうささんの言われている労働の意味が修行に近いものとしても、何らかの形で報酬はもらうと思う。でなければ、現実での修行を続けることさえできない(食事と住む所という報酬は最低限必要でしょう)。必要であれば、不条理でも何処からか、もらえるのでしょうね。つながっているので。
  1. 2005/07/27(水) 23:27:42 |
  2. URL |
  3. たわふ #-
  4. [ 編集]

本当の勇気

「うまく回るように」日々精進する、のでしょうか。
私は、日々完全に精進している結果、「うまく回っていく」ことしか起こり得ないと思います。

このふたつの違いは大きい。
とてつもなく大きい。

修行のために労働する、のでしょうか。
いったい労働は修行以外のものになり得るのでしょうか。

修行するために奉仕する、のでしょうか。
いったい奉仕は修行以外のものになり得るのでしょうか。

では、修行はなんのためでしょうか。
そこが最大の問題。
何かを「得よう」と思って修行しているうちは修行では無い。
修行のためと思っているあいだはそれは修行にはなっていない。

真実への本当の勇気を持ち、行動出来る時、怖れるものは何もありません。
他のことが入る余地は無い。
精神界との繋がりを日常の中の一瞬毎に感じることが出来た時、
とるべき行動は自ずと決定されていく。
真実への本当の勇気を持つことは、容易い道ではないので、持てた気になったとしても実際は勘違いであることのほうが多い。
「生活の保証」という発想もそこから来るのかなと思ったりします。
いったいこの世界に保証されるものなどあるのでしょうか。
言葉の遊びではなく。
(私にも養うべき家族があります。)

私の考える共同体は、私が世界全体を自分と感じることが出来る部分の顕われなので、自分の中では、分離の対極に捉えたいものです。だから、理念に少しでも賛同出来る共同体に対しては、基本的に自分のことのように考える。
そのように行動してくれてありがとう、と思う。参加するしないに拘らず。

その理念の「現実化」なるものは、どれほど精神界と深く結びつくことが出来るかにすべてかかっている。それには真実への勇気が不可欠。
その時、じゃあ、実際はどうやるのかとか、方法論はどうなのかとか、そういう「いかにして」ということは、その共同体のその土地でのその時代のその人々でしか成し得ないことしか起こりようがないとしか言えない。(社会三層構造などの)足がかりはあったとしても。

実際、人智学(を含むあらゆる精神科学、霊学)はそれにつきると思っています。
一般論は足がかりにしかなり得ない。
それは必要なもののごくごく僅かな部分でしかない。
でも、だからといってないがしろにして良いものでは決してない。
むしろ、だからこそ礎。
そこから始まらずそこで終わらず。

そこのところを共に学んでいこうという共同体があってもいいと私は思います。
私があしたの国の最大の問題は精神界との繋がりであると言ったことは、つまり、その「共に学んでいこう」という部分の原動力と真剣さです。
実際のところ、「自然の中で暮らしたい」「家族と幸せに暮らしたい」というような私利私欲、「人智学共同体を実現させたい」という感情、主義主張、それらが共同体形成の理由になっていはしまいか。
それほど脆く、かつ危ういものはないでしょう。それはまぎれもなく悪です。

たわふさんの言葉
「すべてはつながっている」のに、現実社会とは全く正反対な価値観をもった共同体が存在できるのだろうか?

この理論展開は私にはさっぱり理解出来ない。すみません。
理解するために私はいったいなんと質問すれば良いのかすらわからない、とっかかりさえ全く掴めない。

さて、今まで私は、ここで、自分の考えを自由に語らせていただいてきたのですが(強い語調は使わせていただきましたが)、新参者として登場した私の考えに対して、ハブさん(はじめまして)がたわふさんの考えを代弁しようとしたり、たわふさんがそれを受けて「少し補足」したりしていらっしゃったので、おお、ここは、個人がお互いに完全に尊重しあう精神の自由のある場ではなかったか、と悟り、ここらが潮時、と思います。
(誰かが誰かの考えを代弁しようとする、それも3者間の関係性を考慮せずに。つまりこの3者間に真の尊重は無かったということです。)

いろいろお相手いただいて、誠にありがとうございました。
楽しかったです。
(一方的にありがとうございましたなんて言う私の)傲慢さと未熟さを
どうかお許しください。
私の未熟な考えに誠実にお応えいただいて嬉しかったです。
たわふさん、ハブさんの幸いをお祈りしています。
(社会の未来、読んでません。読もうと思います。)

最後にひとつだけ、秘教や秘儀は現代でも世界中の国家形成や社会の根幹を成しているという事実はまぎれもなくあると思います。白魔術的なものにしろ黒魔術的なものにしろ。
方法論とかは大切には違いありませんが、それは(簡単に手に入るのでみんなが大好きな)グリコのおまけではないでしょうか。
  1. 2005/07/28(木) 23:39:39 |
  2. URL |
  3. うさうさ #PSnYe7JY
  4. [ 編集]

前提が違うのでしょうか

私の前提としては、

現状、社会も私も
「うまく回っていない」との前提
 ↓
日々精進(不完全でも)
 ↓
うまく回りだす
 ↓
日々完全に精進
 ↓
うまく回っていく

ここでようやく、
日々完全に精進している結果、「うまく回っていく」ことしか起こり得ないという状態になると思っているのですが、前提条件が違うのでしょうか?

現在はすでに「うまく回っている」という前提でとらえているのでしょうか?そのようにとらえれば、この現実世界は、自分の希望とか意思とか関係なくあたえられた事をするだけの修行をするだけ場となる。

ただ、修行の度合いが足りないから、進歩がすくない。だから、もっとという感じなのでしょうか?

>「生活の保証」という発想
保証というよりは、うまく回る可能性が少ないと思っているんですが・・。

>そのように行動してくれてありがとう、と思う。

そうは思いますが、その行動によって、あいまいな社会三層構造になり「こんなものか」と世間の人に思われてしまい、今後、同じような事を行動しようとしたとき、障害になるのではないかと現状の状態では思ってしまいます。

>その時、じゃあ、実際はどうやるのかとか、
>方法論はどうなのかとか、
>そういう「いかにして」ということは、
>その共同体のその土地でのその時代の
>その人々でしか成し得ないことしか
>起こりようがないとしか言えない。

やはりそうでしょう。であれば、あのように全国に対してアピールする前にもっとすることがあるのではないかと私は思うのです。
もっと小さい集団から地道に実績をつくる方がいいと思うのです。何も無い状態なのに、最終構想しかないのでは、全国のみなさんは困惑するだけと思うのです。

>私があしたの国の最大の問題は
>精神界との繋がりであると言ったことは、
>つまり、その「共に学んでいこう」という
>部分の原動力と真剣さです。

「原動力と真剣さ」といっても、あまりに構想が最初から大きいのが問題だと思います。あの構想は、誰でもあればいいよねと思うくらい大きすぎると思います。何か妙案があればよいのですが、現状、呼びかけている以外は策はないようですので。天使が微笑めば(使命があれば)、スポンサーがつくとは思うのですが、一般人には祈るしかないですね。(具体的な一番の問題点は、シュタイナー学校の先生がまずいない。いずみ・田辺・シューレでも足りてないので募集しているくらいなのに)

「すべてはつながっている」のに、現実社会とは全く正反対な価値観をもった共同体が存在できるのだろうか?を補足しますと、

分離した現実社会の中で、分離と対極にある理想的な共同体が現実するのか?まずはすこしづつ理想に近づける様に、分離した現実社会のシステムも少しは取り入れ、現実化させることが第一で、理想はすこしづつ近づけるしかないのではないか?という事なんですが、変ですかね。

ハブさんの代弁や私の補足は、「精神の自由」でなくなったのですか?少ない文章では伝わりにくいので他の言い方をして伝えようとしただけですが。

(うさうささんがイヤな引用をしてしまいました。この方が書きやすかったもので・・。うさうささんは、秘儀参入者になってすでに見えている方だったんですか?そうであれば、私の様なものでは、理解できない領域です。)
  1. 2005/07/29(金) 21:13:10 |
  2. URL |
  3. たわふ #-
  4. [ 編集]

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://press328.blog4.fc2.com/tb.php/37-b7611928