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シュタイナー、したいなあ

シュタイナーについて思うこと

芸術

私の中での芸術は、普通に言われている芸術とはちょっとニュアンスが違う。私の定義では、「人間の進化を促進させるもの」が芸術であると思っている。

そのように定義すると、金持ちが、芸術品を好きなのが分かるような気がする。
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  1. 2005/04/16(土) 20:31:36|
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コメント

あしたの国と、社会主義について

たわふ様
早速の、ご丁寧なご返事ありがとうございました。
あしたの国のパンフの月並みさ、ホームページの
内容の無さについては、私もがっかりした部分も
ありますが、社会3層化運動を目的とし、しかも、
将来は、文化的な試験的実験的町になるはずと
いう前向きな意図という点で、期待と喜びを感じて
います。何と言っても子安さんとその周辺には、
シュタイナーの専門家が控えているでしょうから、
私などとは、格段の、最強メンバーと言えるでしょう。
私とは違い、海外での同様な試みで生活した経験者や、
体験者もいるし、何度も視察しているようですので、
外部に公表出来る段階(決定事項)は、何もなくても、
シュタイナーの3層化の理念を目指すといいながら、
うそで固めた、どこかのちまたの新興宗教の様な
末路をたどる事はなかろうと、信じております。
もちろん、3層化の理解度が、低いメンバーも
いるだろうし、問題は、次々起こるだろうし、
理想と現実のずれは、避け得ないと想いますが、
自由意志を尊重し、
何物をもドグマにしないことを目指す、
シュタイナー的な柔軟性と謙虚さを、
失わない限り、永遠の改善を、
他の団体以上に期待できる
と想っています。

MOMO PROJECTと比べると、
過激ではなく、私から見ると、
至って、常識路線で、もの足りなく、
月並みな感じはいなめませんが、
私のこれまでの経験で、
日本では、その方が受け入れ
られるのではと、最近想ってます。
ちょっと、肩を持ちすぎかもしれませんが。

でも、もし行くなら、失望覚悟で、あまり
期待しないで、これから、0から、自分達で、
創造していくのだ、位の気持ちで言った方が、
いいかも。

月手取り15~6万円でカツカツの生活、貯金0円
の私には、海外で学ぶ金がないので、
あしたの国の近くで、生活し、シュタイナーに
関心ある人と暮らしたい気持ちは、大ですが、
MOMO PROJECTは、どこに行っても継続します。
(閉鎖して2年以内に行こうと想っていると、貴ページに
書いたのを、訂正しようとしたが、パスワードわすれた)
今すぐ行く金もないし、閑古鳥が鳴いているとは言え、
ひとのわと、神戸の地にて3層化運動を実践する志を、
放棄することに、責任を感じない訳ではないので、
あしたの国に行くのは、もう少し、こちらで頑張って、
出来れば、だれかにまかせられる状態にしてからに
しようかと、現時点では、想っています。

社会の未来は、2回ほどざっと読んだのですが、
まだ、ホームページに読書ノート作っていません。
まもなく、開始しますが。現時点の私の理解ですが、

レーニンの考えは、
プロレタリア階級は、他の諸階級が行き詰まり、
没落したあと、社会の上層に位置する唯一の
階級になる。
そして、ブルジョアの国家機構を、手にし、
さらに、それを、最高度に完成する。
国家を廃止するのでなく、
国家の漸次的死滅の中に、救済を見る。
国家は、完成することにより、自己固有の衝動により、
自分から存在を止め死滅する。
つまり、プロレタリアートは、国家管理を引き継ぎ、
それを、完成する事で、終局に導く、第一段階です。
しかし、
この段階では、ブルジョア秩序は続き、不平等は存続し、
願わしい状態は、生じない。
レーニンいわく、ブルジョアジーなしのブルジョア国家にすぎない。

社会主義の第2段階は、国家の死滅によって、始まる。
働かざる者食うべからずの命題によって、賃金を得る時代は
終わり、各人は、能力に応じて働く事が出来るだけでなく、
働こうと欲する。労働を必要にせまられてするものではなく、
そうしたいからするように、第1段階の過程において、
なっているというのだ。この新しいタイプの人間は、
盗みを働こうとはしない。
能力に応じて働き、要求に応じて生きる、高次の秩序である。
不可知論に至ると共に、第2の高次の段階も現れるというのだ。
そして、その段階では、新しいタイプの人間が現れるというのだ。

さて、シュタイナーは、これは、迷信に基づいた考え方だと言います。
つまり、今日の多くの人が陥っている迷信、つまり、精神生活が、
単なるイデオロギーになり、イデオロギーのみに関わる経済秩序が
生まれ、経済生活以外は、無用とされ、経済生活によって、望ましい
社会秩序だけでなく、新しいタイプの人間までもが、生み出されると、
安易に、思い込んでしまっているという迷信です。
そして、精神生活の中でのみ、新しいタイプの人間は、生み出される
のであり、そのためには、精神生活が、自由に独立していなければ
いけません。今の時代の精神生活は、経済と国家によって、拘束されて
います。だから、新しい人間を生み出すことは出来ません。

そして、シュタイナーは、分派的傾向を排除し、広い視野に立つ事の
重要性。人間の労働力が、資本主義的経済秩序の中で奴隷化されている
限り、そこに生きるすべての人が、奴隷化に関与していることをわすれては
いけないと言い、大切なのは、正直に、誠意をもって、私達が現代の社会過程
の中に組み込まれて生きていることを、意識し、自己幻想に陥る事無く、
社会過程が全体として健全になるために、可能な限りのことをすることです。
そして、今日の市民科学は、ブルジョア科学であり、真理が、特定の枠組みの
中に納まっているのが問題だ。その枠の中では、便利な真理でも、それらに正しい
光をあてる別様の真理があるのだと語ります。

以上が、近代社会主義の思想形態の、マルクス主義に関する概要です。
それ以降にも、マルクスについて述べられていますが、少しだけあげます。

今日のプロレタリアートの意識は、第一に、唯物史観、第2に、階級闘争という考え方、
第3に剰余価値理論です。
しかし、無意識の深みには、別の3つの衝動が生きており、それについては、
気づいていない。
第一は、現代にふさわしい霊的生活の探求、第2に、思考生活の自由、第3に、
真の意味での社会主義です。

芸術において自然主義をもたらした、抽象的な精神生活への偏愛、努力と
同じ考え方、感じ方が、プロレタリアートが、無情な近代資本主義の中に組み込まれ、
機械の前に立たされ、その運命のすべてが、経済生活だけと、結び付けられたとき、
唯物史観をもたらした、と言います。

思想の自由も、魂の奥底で無意識に求めながら、意識は、その逆を求めなければ
ならないと想っている為、無意識は、なおさら過激に反抗し、階級闘争となり、
権威から自由になろうとした市民層は、国家という新しい権威信仰にまた落ち込んで
しまった。市民は、国家が認める専門家の判断に頼ろうとする。
近代の指導層は、各人が各自の意識を持つ様になる事を求めず、意識にユニフォームを
着せ、それが根本において国家意識となるように、ひたすら求める。
プロレタリア階級は、国家から閉め出され、経済生活に組み込まれ、
プロレタリアは、階級意識の中でのみ、社会に生きる自分を感じる事が出来た。
そして、画一化する階級意識が、魂を溶接した。無意識の中の思想の自由とは、
正反対のものが、(精神の不自由、社会的抑圧によって、)生じてしまった。

近代人は、魂の奥底で、社会主義の実現を求めている。
無意識の中で、個人が社会の中で十分生きがいを感じることが出来るような社会を
求め、自分がその1員として感じられるように願っている。
しかし、無意識の中でしか、そう想っていない。
意識の領域では、人々はまず自分のことを考え、可能な限り社会有機体から抜け出た所に
居ようとする。支配的ブルジョアは、社会から精神的な享受を受けても、社会にそのお返しを
しようと想わない利己主義が支配し、それにならって、プロレタリア階級も、最後の帰結を、
利己主義から引き出し、剰余価値説となった。魂の奥底にまどろんでいる真の社会主義の
代わりに、意識に、最も反社会的な剰余価値説(剰余価値を得ようとするブルジョアの要求と
同じように利己的なもの)があらわれた。社会主義とは言えない様な社会主義を求めた。
今日の私達は、精神を否定して、唯物史観の中に、最後の帰結を見出すような精神活動を、
それぞれが行っている。
プロレタリアートにおける今日の反社会的努力の中から、真の社会的努力を引き出す以外に、
可能な道はないのです。
そのためには、国家の介入のない経済生活と精神生活の独立、
経済からも、国家からも自由な精神生活、そのような三分節化された社会だけが、
思想の本当の自由と、法の下の平等と、経済の友愛を実現しうる。

シュタイナーは、こんな思想はこれまでの歴史の中にまったく
なかったと言えるような思想を身につけるべきだと言います。そして、
皆さん、大きな決断を人類は促されています。
無意識の本能から、この決断を成就させようとすると、社会主義に行き着きます。
十分な数の人間が、物質生活上の社会主義を、理念的唯心論に結びつける
までは、世界は、混乱から抜け出せないでしょう。
人々がまず、眼の前の現実に眼を向ける事が出来ない間は、社会の歴史的進化の
過程に、どんな祝福も生じません。

長くなりましたが、以上のシュタイナーの文から判断すると、シュタイナーは、真の社会主義を、
実現しようとしているようです。それが、いわゆる一般的にいう社会主義とどう違うか?
三分節化され、精神の自由と、経済の友愛と、法の下の平等を目指す事。
それでは、不十分でしょうか?
真の社会主義とは、一体何か?
社会3層化を目指し、精神の自由、経済の友愛、法の下の平等をそれぞれ、目指す、
唯心論的かつ、個人が社会の中で十分生きがいを感じることが出来るような社会、
自分がその社会有機体の一員として生きていると感じられるような社会。

また、歴史上の社会主義とは、一体何だったのか?
エンデが言うように、それは結局のところ、国家資本主義だったのだ。

以上が現時点の私に出来る答えかな?
残りの件は、また日にちあらためて。
1時過ぎたので、夜中の晩飯食って寝ます。
何という不摂生な生活。
3層化の健全な社会の実現の前に、
健全な個人生活の必要について、
考えます。
それではまた。


  1. 2005/07/10(日) 01:11:10 |
  2. URL |
  3. Masumi Mori #sbYh2q36
  4. [ 編集]

健全な個人生活

長い引用ありがとうございます。書くのは大変だったでしょう。

プロレタリアートである私達(厳密には意味でのプロレタリアートではないですが)から変わっていくしかないのではないかと思います。

貨幣の奴隷からの解放(自分次第)と精神の自由(これも自分次第)を実現して、現代社会で生活が成り立てば、社会三層構造を実践できる可能性が生まれると思います。

そのような人たちがあつまれば、実現できるとは思いますが、私を含め、集まる人たちは、まだまだ、貨幣の奴隷になっています。そのため、団体に頼った形で集まるわけです。

そうすると、代表の言う事に従わざるを得ないので、独裁政治になるわけです。(現状関わっている団体について言えば、集まった人達の責任が大きいのです。)

ですので、あしたの国に行くのであれば、引っ越しても自営で生活できる状態で行くしかないとは思います。

周りにシュタイナー関係の方が集まるのは魅力ですね。(それも社会三層構造を目的とした人たちが多いのであればなおさらですね)

シュタイナー教育のみを目的とした人たちが集まると最悪の状態です。
  1. 2005/07/10(日) 08:34:21 |
  2. URL |
  3. たわふ #-
  4. [ 編集]

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