シュタイナー、したいなあ

シュタイナーについて思うこと

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テレビとプラスチックのおもちゃについて

不安げな子・寂しげな子・落着きのない子(仮題)」を読んで

一応、こちらのBlogにも感想は書いたけど、基本的には十二感覚の基礎感覚(触覚・生命感覚・運動感覚・平衡感覚)が、いかに重要であるかを長年の教育カウンセラーとしての経験の上で書いた内容(基礎感覚はその人の将来の社会性に重要な影響を与えます)。ここでは、テレビと、プラスティックのおもちゃのみに絞って書く。本書は、以下のような内容は少なく、本書の本意を逸脱している感想であることをまず断っておきます。

「教育カウンセラーとしての多年にわたる経験から、はっきりこう言うことができます。「ある学童に集中力に欠けた病的な落着きのなさが見られたならば、それはその子が ―どのような理由からにせよ― 四~五歳までに充分な模倣活動がなされなかったことと関係がある」と。」(P40より引用)
シュタイナー教育では、幼児期の模倣をとても重要なことであるとしているのは、この文章からも分かる。多動児が増えている理由もこの辺にあるのではないかと思われる。

「模倣を経ずして想像性は目覚めません。」(P39より引用)
最近の社会人が想像性をなくしてしまったのは、小さい頃に模倣が足りないせいかもしれない。想像性がなければ、言われたことしかできない典型的なダメ社員になるだろうなあ。ゆとり世代・ゆとり世代と言って、ゆとり教育が原因のようなことも言われているけど、ゆとり世代以前から、少ないけれどそのような人はいたし、ゆとり世代ぐらいから、模倣ができる大人が、ゲームやマンガ世代だからしょうがないのではないかと思う。

「けばけばしい色彩がほどこされた玩具で無邪気に遊んでいる子どもたちを、無頓着に放っておくのはよくありません。なぜならば、いくら楽しそうにしていようとも、彼らは事の良し悪しなどまったく頓着せずに遊んでいるのですから。どぎつい色、まぶしい光、うるさい音・・・、いかにも刺激的な玩具の世界は、やがて彼らに退屈を覚えさせ、彼ら感性を鈍らせてしまうでしょう。私たちがこうしたことに無頓着でいるなら、それは、彼らの内なる芸術家を堕落させてしまうことになるでしょう。」(P42より引用)
これについては、最近よく思う。なんだか、我が家の長男(8歳)は、よくもらい物をする。どこか旅行途中でコンビニに行くと、そこの店長が、プレゼント期限の過ぎた景品をくれたり、要らないものをどこからかもらってくる(すごい才能だと思うけど)。でも、数日、長くても数週間遊ぶと飽きたといって、要らないと言い出す。もらうときは頂戴頂戴頂戴とねだるのに。次男(2歳)ももらってきたもので一緒に遊ぶけれども、だんだん、投げ出して、ぶつけたり、落としたりしだす。これは飽きたのか??と思ったりしてその時点で捨てることにした(本当は最初から捨てたほうがいいだろうけど)。逆に、木製のおもちゃなどは、はじめて与えたときは、全然興味なし状態。でも時々静かに遊んでいる。そういえば、そういうおもちゃは、投げたりはしないと思う(重いからかもしれないけど)。

そして、テレビを見せるのがよくないのは、
「テレビは、つけないようにしてください。テレビは健康な模倣にとっての、最強の敵の一つなのですから。」(P41より引用)ということである。本来の模倣ではない模倣になるからであろう。実際問題、テレビがあれば、見せてしまうのは、親としてはすごく楽なのはよーーく分かる(私自身がテレビっ子だったし)。なので、テレビは捨てました。でも、最近は長男はインターネットで見ることを学んでしまいました・・・。垂れ流しの内容を、受動的に見ているよりはマシ?一応、見たいという意志から見ることになるけど、やっぱり無条件に見せ続けるのはよろしくないなあ。でも次男は、あまり、興味がないようで、長男が見ていても全然みない。長男が次男の年の頃は、見たい見たいと言って見ていた記憶がある。

落着きのない子というのは、生命感覚が育っていない子どもであり、一般に(シュタイナー業界では)生命感覚は、身体の異常とか、体調の不調とかを感じる感覚とされているが、それも間違いではないが、本来は持続的に心地好い感覚を感じる感覚であり、本来体調に異常がなければ心地好い状態を感じるはずなのに、その心地好さを感じる感覚(生命感覚)が育っていないため、それを誤魔化そうとして、騒いだり、動き回ったり、感覚を感じないように努力している姿といえる。そして、以下のような症状が出てくるようになるとのこと。
「そのような子どもたちはしばしば、いわゆる神経性チックを見せるようになります。たとえば無意味な咳払いをしたり、目をぱちぱちしばいたり、かくんかくんと首を振ったり、無理に息を詰めたりするようになるのです。これらはすべて、自分自身を感じないですむように絶えず何かをしていることと関連しています。ですから彼らは、人間を吸い込む作用を持つテレビを異常なまでに好みます。」(P61より引用)
実際、長男もチックではないかとちょっと心配しているところもある。

そして、プラスティックについては十二感覚の触覚から考えて望ましくないとされています。シュタイナー自身が、プラスティックはダメと言ってはいないと思います(その時代に存在しないと思うので)。
「ここでまたルドルフ・シュタイナーを引用しましょう。「人間はある対象物と皮膚で出会います。・・・人間がその対象物に出会い、知覚するもの、それはもちろん皮膚の内に、身体の内に生じます。つまり・・・触れることによって生じるプロセスは、人間の内に生じます」言い換えるなら、触覚による知覚は、物質的・外的世界の直接的接触に応じる内的共振です。」(P78より引用)
まず、触覚というものは、一般的に物理的な肌触りとか触れているとかそんな感覚とされていますが、まちがってはいませんが、その感じた感覚を感じるには、内部で同じものを再現しなければ感じることはできないということ。触覚に限りませんが、聞いてて不快感を感じる音があり、それを聞き続けるのはなぜ苦痛かといえば、その音を内部で再現するからこそ、聞こえるのであり、再現するからこそ、不快と感じてしまうわけです。自分の中に同じものがなければ感じることができないということです。(怒りなどもおなじですよね)

「プラスティックは、心地好く響く振動も不快に響く振動も生み出しません。それは魂の内に無の感情を、不安な虚無を広げます。それはたとえば、美しい音色を聞こうとしてハープの弦をつまびいたのに何も聞こえてこない、といった感じに似ているでしょうか。もちろん、聴覚の場合とは異なり、触覚の場合にはすべてが無意識裡に生じています。(中略)(プラスティックは、)少なくとも子ども部屋では見ないようにしたいものです。私たちはそこでだけは、原理主義者であってもよいのです。絶え間なく点滅しているネオンの光を子どもに浴びせつづけていれば、その子はすぐにも視覚障害を持つことになるでしょう。子どもに多くのプラスティック遊具を与え、さらに化繊の衣服を着せていれば、それはその子に触覚障害を持たせるように手助けしてくれることになるでしょうし、さらに、生命感覚にも障害をもたらしてくれることになるでしょう。なぜならこの二つの感覚は、極めて密接に絡み合っているからです。」(P79~P80より引用)
本書は、他の部分では極めて現実的な文章で書いてあります。現実的には難しいですがとか、大人自身も問題があるので子どもだけでの問題ではないとか書いてあるのですが、ここだけは「原理主義者であってよいのです」と書いてあってびっくりしました。「ネオンの光を子どもに浴びせつづけていれば」とあるので、蛍光灯もよくないわけで、シュタイナー学校などは、照明になんらかの囲いをつけていることが多いわけですね。(テレビもネオンと原理的には同じ)

このプラスティックについての見解は、大筋としては私も同意します。プラスティックは、製造工程と考えれば、大量に生産しないと、割に合わないものです。普通1個100円ぐらいのものを、少量生産したら、金型代で、1個が何万円もしてしまう可能性もあります。なので、プラスティック商品は、人の手間というか想いというかそういうものはとても希薄なものになっていると思います。いくら、設計で苦労や努力してもすごく希薄なものになると思います。木製品も、機械で削れば、大量生産できますけれど、木製品である以上、最後に、割れや欠け、虫食い、節穴などをチェックをしなければならないし、何らかのコーティングをすることが多いと思いますし、材料の段階で、曲がっているものや割れているものを省くなど、場合によっては、集成材としなければ、ならないという工程が発生すると思います。そのような工程を省けるのであれば、プラスティック製品と変わりない木製品となることもあるでしょう。なので一概に、プラスティックだから悪いとか木製品だから良いとはいえないけれど、でも、そのように言えることの方が多いとは思います。

プラスティックの一般的な認識として、ガラスや陶器のように、簡単に壊れないから、手荒に扱われる、あまり意識というか注意を向けられないことが多い。木製品も似たようなことはあるけど、木製品は、水につけたり乾燥で、割れたり変形する可能性があるので多少注意が向けられていると思う。なので、プラスティックは、子どもが手荒に扱っても、まあいいやと思われるような意識の向けられ方しかされないのが一番問題かも。それが伝わるのだろう。(無関心な意識?なので次男は投げつけたりするのかな?)

ある人が、ある商品を見て「なんて精神性がないのだろう」と感じるそうです。普通の一般的な生活空間を「なんて精神性がないものに囲まれているんだろう」と感じると聞いて、びっくりしました。プラスティックに囲まれていればそうなるのかもしれません。精神性か・・・。多分、芸術的な絵画などは、精神性が高いのでしょう。物質的には、紙と絵の具でしかないわけですから、紙と絵の具の精神性が高ければ、全ての絵画は芸術作品になるんじゃなかろうか??(冗談です) 「精神性が高い」を別の言い方をすれば「愛があるもの」ともいえるかな。

又、親が大事にしているものをやたらと子どもが触りたがる、親が知らんふりして、隠そうと意識しているものに、子どもが気に留めるということが何度もあります。そんなことを考え合わせると、何か作る場合、作っている時の正しい想い(悪意のない想いという感じで、なんの想いもないのはもっと酷い)をこめたもの、その結果、長く想いがこめたものや、多くの人の意識が集まるもの(芸術品?)は、精神性が高いと言えるのではないか?そうすると、たとえ、プラスティック製品でも、大事に使用しているものは、多少なりとも精神性が高くなるのではないかと思う(表面的に大事にしているのではダメでしょう。でも、プラスティックの場合、材料(原油)時点からのマイナス要因が大きすぎるような気がする)。

モノを大事にするという精神は、子育てには結構真理をついているのかもしれないと思う今日この頃。(大人の精神にもいいと思うけれど)



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  1. 2010/09/11(土) 03:49:59|
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