絶版である
シュタイナー自伝〈1〉― わが人生の歩み (1982年)と
シュタイナー自伝〈2〉― わが人生の歩み (1983年)を図書館より借りて読んだ。
現在は、再版されている様子。
以下のページは、絶版本のものによる。
「私は思考を、人間が物体に関して作り上げるイメージのようなものとみなすことができなかった。私にとって思考とは、この魂という舞台の上で演じられる精神的世界の顕現に他ならなかった。幾何学は、人間自身によって生み出されたように見えるが、しかし、人間から全く独立した意味を持つ認識であるように思われた。私は子供であったので、もちろん明言するまでには至らなかったが、人間は精神的世界(霊的世界)の認識も幾何学と同様に、自己の内部に保有しているにちがいないと感じた。それというのも私にとっては、精神的世界の現実性は感覚的世界の現実性と同程度に確実なものだったからである。」〈1〉P22
→幾何学は精神的な構造を示しているということか?
「私はその頃およそ十歳であり、正書法の上でも、文法的にも、完全に正しい文章を書くことはまだできなかった。」〈1〉P27
→「カルマの形成」に12歳までに文章を書けるようになると高次の霊が降りてこれないようなことが書いてあった。また、経済的な活動に組み込まれることになるようだ。(ここの内容はうろ覚え)
「思考それ自体が、自然現象の本質に到達することができるような形に形成されるならば、人間は魂の経た霊的体験を把握することができる」〈1〉P38
→思考が幾何学的に形成されればよいということか?
思考の形成のされ方で本質が見えるかどうかが決まるようだ。(当たり前か・・・ただ、どこまで本質を見えるようになるかというところか)
「私にとって自我とは、自我そのものの中に存在するある現実を、内面的に概観する体験に他ならなかった。」「自我を、何物かの現象形態だとか、何かある過程の産み出す結果だとかみなす人は、<自我>のことがわかっていないのだと私には思われた。」〈1〉P85
→自我は経験によって形成されるものかと思っていたが(それもあるだろうが)、そうではないと・・・。
「非有機物を認識するにあたっては、自然界に何らかの作用を及ぼしている諸力の関連を見通すために、概念が連続的に並置されてゆく。これに対し、有機的なものの把握に必要なのは、ある概念を他の概念から発生させ、概念の変化が生き生きと進行してゆく過程において、自然界で形成されたものの像を生じさせることである。ゲーテは、植物の葉についての一つの理念像を精神にしっかりと保持することによって、以上の彼の思想を実践した。この場合、理念像とは、硬直して生命を欠く概念ではなく、さまざまな形態を取って現われ得る概念を指している。人間は、精神の内部でこうした形態を個別に生じさせることによって、植物の全体像を構成する。自然が現実的なやり方で植物を形成するのと同じ過程が、魂の中では理念的な方法で追創造されるのである。」〈1〉P112
→これが、一般人間学で言われていた「生きた概念」!?「生きた思考」!?
「この青年は、純粋理念にいきるとき人は同時に霊的世界に生きるていること、純粋理念の世界では自然全体が認識めがけて閃光を放つに違いなく、人間の前に物質的形態をとって存在しているものは仮象(幻想)にすぎないこと、そして更に、あらゆる物質的存在は理念を媒介に霊としてのその本質的な姿を表わすことを ――熱烈にといってよいほどに―― 洞察していた。」〈2〉P81
「何事も思い通りにはゆかないものだった。現実の半面が私を完全に必要としていた。こうして、できればこのまま保ち続けてゆきたいと願っていた大切な人間関係が、たちまちの裡に吹き飛んでしまった。しかし、私はこの現実を運命(カルマ)の摂理だと考えることにした。」〈2〉P127
→私もよくカルマだからしょうがないと考えるのですごく親近感がわいた。(レベルが違うだろうけど)
「私は、色彩や形や舞台装置と同じように、思想を媒体とした芸術活動を展開することも、可能ではないかと考えていた。」〈2〉P139
→一般に言われている芸術だけが芸術ではないのだろう。どんなことにも芸術活動にすることが出来るのではないかと思う。
全体的な感想としては、オカルトなだけに、世間で色々誤解されているのでその弁明のために書いたという感じだが、シュタイナーの基本的な姿勢というか、スタンスがなんとなく理解できたので、今後、本を読むとき(特に
自由の哲学)に理解が深まりそうな気がする。
P.S.
一番重要な部分が、まだ、書いていないというかまとめ切れていない。後々追加する。
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- 2007/06/29(金) 13:25:57|
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