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シュタイナー、したいなあ

シュタイナーについて思うこと

2006-7-6「芸術と美学」勉強会

いか超」の読み合わせが前回で終了し、新たに「芸術と美学」の読み合わせとなる。

シュタイナー 芸術と美学
ルドルフ シュタイナー (著), 西川 隆範 (翻訳)

古本(ユーズド商品)が安かったので速攻で購入した。

P2~P16まで読み進めることができた。
◆人智学と芸術1
●「秘儀は本来、今日でいうと学校と教会と芸術施設を一つににしたものでした。」
→シュタイナー教育はそうゆうものという意味?

●「超地上的存在から感覚的存在へと下る前に魂であったものの死骸が、この思考なのです。」「私たちの地上的な思考は、私たちの地上に下る前の魂的生活の死骸なのです。思考の抽象性は死骸です。」
→本来の思考は、思考自体が芸術ということ?

●「観念の中に生きることを中止するために、形象によって思考しはじめねばなりません。特に、自然の中で最高のもの、人間の肉体はその形態を像として思考しなければなりません。」
→「いか超」P61に「石には形態があり、動物にも形態がある。石は静かにおのれの場所に留まり続ける。動物は場所を移動する。場所を移動するように、動物を促すのは衝動(欲望)である。動物の形態もこの衝動に従って形成されている。その諸器官はこの衝動にふさわしい在り方をしている。これに対して石の形態は欲望に応じてはいない。欲望をもたぬ力によって形成されている」と記載されている。人間をみるとその形態から衝動がみえるのかな?衝動ではなく自我がみえるのだろうか?

●「墓地に立てられる墓石の芸術的な形態の中で、魂は死後の消息に通じるのです。宇宙の彼方へと通じる道が墓で作られるのです。墓は超感覚的なものから魂に与えられた覆いです。動物や植物は感覚的・自然的な要素を通して外皮を受け取っています。」
→私自身は墓地は要らないと思っているけど、それは唯物論的な発想なのだろうか?

●「私たちが抽象的な服の着方をやめれば、色彩との関係において、地上に生まれる以前に経験した生命的思考の残りをいかにわずかしか有していないかを示すことになります。つまり今日、抽象的に服を着ないようにすると、たいてい、趣味の悪いものを着ることになります。」
→現代では抽象的にしか服を着れないということ?もし、抽象的でなくすると、わずかしかないため、趣味悪くなるわけか?どちらにしてもしょうがないということか。

●「抽象的な思考ではなく、生きた像の形で見ると、それは頭の中にとどまろうとはしません。」「思考は頭以外のところで活動しはじめます。ことに、腕と指が思考の道具になりはじめます。腕と指の中で、思考は形態という形で生きます。こうして、彫刻家が生まれます。」
→人それぞれ、手と指が動いて、何かこの世界に表現しようとする行為を「し始めざるを得ない」事が生きた像なのだろうか?その表現したものがその人の使命になる仕事?

(所感)
わかりづらい。読みづらい。この文体に慣れるまで時間かかりそう。思考で理解しようとしないで、生命的思考をすればいいのかもしれないけど。
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  1. 2006/07/07(金) 17:31:55|
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