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シュタイナー、したいなあ

シュタイナーについて思うこと

いまさらながら「シュタイナー入門」を読んだ

「シュタイナー入門」という本は2冊ある。

西平 直(著)小杉 英了(著)である。

今回は、
シュタイナー入門
シュタイナー入門 小杉 英了(著)を読んだ。

西平 直(著)の方は、昔、古本で安く売っていたので手元にある。これを読んだときは、あんまり面白くないなあと思ったと記憶している。ある程度、知った後なので当たり前なのだが、広く浅くの内容だった。なので、小杉 英了(著)の方もそんなに変わらないだろと読もうとも思わなかった。そのときは。

だが、図書館でこの本を見て、ついつい借りたくなった。あまり期待せずに読んだのだが、結構面白い。シュタイナーをあまり知らない人でもある程度は理解できるとは思うが、シュタイナーをある程度理解した後にも読むとさらに面白いと思う。

特に、四大著書(神秘学概論神智学いか超自由の哲学)を読んでからよむと結構面白いと思う。そのような意味では、よくわからない人が四大著書を読んで、シュタイナーに嫌気がさしたところで、この本を読むとよいのではないか。

なので、西平 直(著)は、何にも知らない人が読み、小杉 英了(著)は、ある程度読んだり知った後に読む。そのような意味では本当のシュタイナー入門なのだろう。

以下、気になった部分のメモ
●「物自体など、存在しないのである。感覚がとらえる事物の背後には、何もない。だいいち、感覚的事物の背後、というこの場の想定すら、感覚的な空間把握に縛られた思考の夢見る、金縛りの比喩にすぎない。
 感覚が捉える事物には、背後も何もない。事物それ自体が生命の場である。ただ人間の思考には、事物を形成している生命に直接入っていく力がない。力がないので、生命の生ないとなみを、感覚を通していったん意識のスクリーンに映し出し、そこに像を見ることによって、かろうじて事物を認識を得ようとするのである。
 だから問題は感覚的知覚にあるのではない。ましてや対象の側や、その背後とやらの物自体なんかにあるのでもない。問題は常に、生命をダイレクトに直感できない思考にある。」
(P35より)
→ おー!「物自体など、存在しないのである」と言い切りましたね!「自由の哲学」でそこまで言い切っているところはなかったような気がしますが、シュタイナーも「治療教育講義」p58に「物理学者が物質素材と名づけているものは、存在しないのです。実際にはもろもろの物質の力だけが存在しているのです。」と言っています。


●「また、「勝ち組」以外の大半の人々はどうかというと、あらゆる種類の「癒し」を求めて、思考力を萎えさせている。チャネリングからポジティブ・シンキング、アロマセラピーからカウンセリングまで。
 おおかたそこで流通する言説はここちよく(だって癒されたいんだもん)、誰にでも簡単に理解できるやさしい言葉で(だって癒されたいんだもん)、読んだり聞いたりするだけですぐに心から納得できる内容になっている。当たり前だ。彼・彼女らには、気前よく支払ってもらわなきゃならないんだから。
 はたして、シュタイナーが思考を強調しすぎなのだろうか。それとも私たちが、人生のあらゆる局面において、真剣な思考をなおざりにしすぎなのだろうか。」
(P128より)
→ 「(だって癒されたいんだもん)」は、すごく的を得ている!私もこのような気持ちがないわけではないが、(だって癒されたいんだもん)だけで動いている人が結構いる。今したいことを今しなきゃ気がすまないというのは「今を生きる」事とは違うと思う。今したいこととは、今までの思考や経験や感情の結果の総体として出ているだけで、単なる過去の結果でしかなく、今ではない。今思考していない。今したいことを否定するわけではないが、今思考することを少しでも深くしてほしい。

●「シュタイナーの行法の核心は、思考が感情を導く、という点である。道徳規範をただちに社会実践したりすることが、行なのではない。誰かに気づいてもらいたい、褒めてもらうような行為が行なのではない。善行をなせ、というのではないのである。
 「畏敬という思考内容を育てる」とは、魂の中で目覚めているように、ということだ。他者に対して容赦のない批判的観点が自分の内部でわき上がる瞬間をはっきりとらえること。そのような鋭敏かつ繊細な思考の振る舞いが、畏敬の念のための土壌を、魂の中に開拓するのである。だから、目覚めた思考が、高貴な心情の先達とならねばならない。」
(P134より)
→ 畏敬の念とよく聞くが、いまひとつピンとこなかったが、これで附に落ちた。また、ここで「いか超」は「新しい社会建設のための魂の書として著されている。(中略)シュタイナーはのちに、この書を(中略)繰り返し、何度でも、精読してくれるよう願ってやまなかった。あなたの魂がまず、本著の意味で真に社会化されるのでない限り、あなたの求める社会はどこにも実現しないのだ、と。」(P135より)・・・、シュタイナー関係者はここを肝にめいじてほしいものである。なんだか、実現することばかりに先走りすぎのような気がしてならない。感情と思考の分離・・・簡単ではないだろうけど、実現させることが最重要なのではなく、自分の中がどうであるかが重要で、実現は自分の中から自然に生まれると思う。

●「シュタイナーがよく言うように、現実をどうしようもないほど複雑怪奇なものにしているのは、うまずたゆまず考え抜くことを放棄して、安易な結論に飛びついてしまう現代人の思考のあり方なのである」
(P185より)
→ 何度も同じような内容のところを引用している気がするが、現代人は基本的に考え抜いていないということですね。私も結構考えているが足りないんだろうなあ・・・。

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  1. 2008/05/10(土) 21:54:43|
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シュタイナー 批判?バッシング?

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』のシュタイナーの項目に批判的な事が書かれた。(ウィキペディアは、誰でも記事が書け、誰でも見ることができる、ネット上の百科事典のようなもの。初めのころは内容が不足なことが多い上、内容もあまり信憑性がなかった。最近はわからない言葉を調べるときは、よく使われている様子なので、ここに書かれていることは客観的な立場でおおむね正しいこととされる傾向があるようなないような。という感じなのでここに批判的なことが書かれると、ちょっと困るというのが現状かも)

一応、現在(2008年5月現在)でも、その批判的な部分は全部ではないにしても、ある程度残してある様子。(全削除されるかと思ったが)

主な批判的な内容は、シュタイナーの文献には人種差別的な表現があることが問題のようだ。

確かに、ある講演録の一部分だけを抜き取れば、人種差別主義者のような感じを受けるだろう。一つの講演録を最初から最後まで読んだ人でも、他の分野など全体を知っていないと、そのようにとらえる人もいるだろう。

また、シュタイナーを信じている人というか勉強している人などは、悪い面をあまり伝えることがすくない。シュタイナーをうわべだけ実践しつづけると全く逆のことを目指すことになりかねないにもかかわらず。

少なからず、批判的なことは、もっとオープンにしたほうがいいと私は思っている。私は、どんな嘘にも真実が隠されていると思っているからである。(子どもが嘘をついたからと言って、その嘘自体に注目するのではなく、なぜそのような嘘をついたのか?というところに真実がある。どんなことも、真実の現れとしての一つの側面であると思うからである)

読む人の判断に任せます。その辺のリンクをいろいろと
1)PLANS日本語
2)9つの批判記事
3)緑の党の結党事情記事
4)シュタイナーは人種差別主義者、あるいは民族主義者であると言う非難に対する反論

  1. 2008/05/10(土) 13:56:13|
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