「
芸術と美学」の読み合わせ。
前回からの続き。
◆新しい美学の父としてのゲーテ(P56~P70まで読み進むことができた)
●「自然の中にあらゆる満足の源泉を見出していたので、自然以上のものを必要としなかったのです。」
→東洋っぽい感じ。一神教になるまでは、西洋も東洋とほぼ同じだったのだろう。一神教により、自然を支配する考えが出てきたようだ。
●「ゲーテの精神の中に原植物、原動物、つまり、動物の理念、植物の理念が現れました。」
→バラは原植物に近いそうだ。「
動物の本質」からすると、ホヤが原動物に近いことになるのかな?
●「一つは、私たちの感覚を外界に向けて開いておく要求、シラーのいう素材本能です。」「第二は、形式本能です。」
→「素材本能」は現実? 「形式本能」は理念?理性?思考? 分かりにくい言葉だ。
(所感)
まったく同じ講演の訳が「
芸術の贈りもの」にもあり、「素材本能」を「素材衝動」、「形式本能」を「形式衝動」と訳している。どちらにしても分かりにくい言葉・・・。現実と理想ということなのだろう。現実だけでも、理想だけでも、その両方があっても、現在の人間にとっては、苦しい状態なのだろう。確かに、そうかも。その間に芸術が必要か・・・。
縄文式土器の形には、合理的な意味はないらしいが、研究者はそれをあーだこーだと考えている様子。縄文式土器は、栗を焼くには一番おいしく焼けるらしい(ためしてガッテンからの情報?)。
スポンサーサイト
- 2006/10/27(金) 22:51:02|
- 芸術と美学|
-
トラックバック(-)|
-
コメント:0
「
千年紀末の神秘学」を読んだ。結構、気分転換になる。
●「
シュタイナー哲学入門」に詳しく書いてある哲学者フランツ・ブレンターノの「魂の主要な働き」は、「思考」「感情」「意志」ではなく、「表象」「判断」「愛と憎しみ」であり、「魂は、他との関連の中においてのみ、みずからの存在する根拠を見出すことができる」「もし信じる対象、愛する対象、あるいは思考する対象がなかったら、魂の存在する理由はどこにもありません」
→思考・感情・意志を基準に考えてしまうと魂の理解が出来ないようだ。だから、いままで理解できなかったのか・・・。まだ、理解できていないけど(「
シュタイナー哲学入門」を読まねば)。「魂」と「心」の言葉の使い方が微妙に納得できていない。「
芸術と美学」での「魂」と「心」の表現が微妙に違う感じを受ける。
●「完全な理想社会がこの世に存在しうるというのは単なる幻想にすぎない」
→ガーン。神秘学的には、そうかも。やっぱり・・・そうだったか・・・という妙な納得がある。
●「ヨーロッパ社会の本質は「憎しみ」の上に成り立っている社会だ」「人類の文化の発展は人類に幸福をもたらすためにあるという考え方は、シュタイナーによれば悪魔の誘惑なのです。人類が幸福を求めて生きていくと、必ずそれは生存競争になり、勝つか負けるかになり、受験戦争のように誰が生き残るかという人間関係になってしまうのです。」
→日本近辺は「愛」の上に成り立っているらしい。でもそれだけでは、自我が育たない気もする。「愛」と「憎しみ」を両方織り交ぜたものが必要なのだろうが、現在は、ヨーロッパの考えに偏っているので問題が多いのだろう。
●「自我存在の本質が、他者に対して破壊的、否定的な態度をとることに依存している。」
→「破壊のるつぼ」という言葉は、「
内面への旅」で読んですごく印象に残っている。
「いか超」の境閾の守護霊部分を読んでからだと、なんとなく分かるような分からないような・・・。「
内面への旅」をもう一度読まないと・・・。
●外来の民族に会う。意識魂の中で
感覚魂を生かす民族、イタリヤ人やスペイン人
「そんな奴は知らない」
悟性魂を発達させているフランス人
「礼儀を知らない奴だ」
意志魂的な態度のイギリス人
「あいつはライバルだ」
なんとか自分を確立しようとしているドイツ人
「敵だ」
→シュタイナーがこんなたとえを出している講演を読んでみたい。シュタイナーはヨーロッパしか例えをだしてないので日本人はどうなるかわからないが、著者は、霊我の民族なので「お客さんだ」と思うハズらしいが、ヨーロッパ的になった近代では、どうだろうかと疑問であるとのこと。たしかに、昔ならそんな感覚だっただろう。
●「シュタイナーの本を読んでみて読みにくいと思ったら、読みにくいのが当然で、シュタイナーはあえて読みにくい文章を書いたのです。」
→やっぱりそうだったのか・・。読むことが訓練なわけだ。シュタイナーの著書は、読む気にならないというか読むと眠くなるので、ついつい講演を読んでしまう。
●「晩年も、シュタイナーは、自分がもし東洋で生まれていたら、まったく違った人智学を考えただろう、といっていました。」(P103)
→やっぱり、ヨーロッパで実践されているそのものをそのまま真似するのは、シュタイナーの本質を分かってないということなんだろう。日本には日本のやり方があるはずと常々思う。
(所感)
シュタイナーの著作や講演以外の、日本人によるシュタイナーの見解を読むのは、面白い。最近、思うのは、訳本でも、シュタイナー自身のではなく、シュタイナーの考えを引き継いだ人の本の方が、取っ掛かりとしては、よいのではないかと思う。最終的には、シュタイナーの本を読むことにはなると思うけど。
- 2006/10/17(火) 23:10:22|
- 本|
-
トラックバック(-)|
-
コメント:0
「
芸術と美学」の読み合わせ。
前回からの続き。
◆人智学と芸術2(P42~P54最後まで)
●「舞台上で人物が右側から左の方へ歩いていくか、反対に、左から右の方に向っていくかで、観客はまったく違った印象を受けます。」
→確かに、イメージするだけでも、違う印象を受ける。霊的な意味を学ぶ必要があるというがどこに書いてあるのだろう。神秘劇も見てみたい。見ても意味分からないかもしれないけど。
本で出版されていたみたいだけど、絶版だ。

復刊.comにさっそくリクエストしておいた。
◆新しい美学の父としてのゲーテ(P56~P59まで読み進むことができた)
●「そもそも、アリストテレスは芸術という概念を持っていませんでした。」
→そのころの人々は、概念をもっておらず、神と親しい関係をもっており、神から与えられるものを表現しているだけで、芸術とかの感覚ではない。芸術とは、神的なものを自我を通して物質的な現実の中で表現することだから。本物の芸術であればあるほど、たくさんの人が感じることができる。
(所感)
身体:建築、エーテル体:彫塑、アストラル体:絵画、自我:音楽、霊我:詩という対応になっている気がする。ゲーテのことをよくよく考えると知らない。
ゲーテの本は、たくさんある様子
。詩と
ファウスト
しか知らない。その上、内容は理解していない。シュタイナーの編集したゲーテの本はあるのだろうか?
- 2006/10/15(日) 22:22:24|
- 芸術と美学|
-
トラックバック(-)|
-
コメント:0
「
芸術と美学」の読み合わせ。
前回からの続き。「
現代と未来を生きるのに必要な社会問題の核心」の読み合わせをしないか?という話もあり、絶版ではないかとも思ったが、売っている。読み合わせがあるかもしれない。
◆人智学と芸術2(P29~P42まで読み進むことができた)
●「赤は生命の輝き、青は魂の輝き、黄は霊の輝き」
→緑・淡紅色・白・黒は、像か影の色で、赤・青・黄は輝きの色・・・。意味は分からないが、赤・青・黄が子どもの色彩体験としては望ましいということだろう。
●「赤は近づき、青は遠ざかります。色彩遠近法、内的遠近法です。このような遠近法がまだ魂的・霊的なものの中に生きていました。」「唯物論の時代になって初めて空間遠近法が現れたのです。」「再び、色彩遠近法に戻るのです。」
→
前回の「平面の中で空間の謎を解かねばなりません。」と同じことが書いてある。
●「三度の音程は、人間のエーテル体と肉体の中に入り込むものです。」「空間遠近法は外的自然主義であり、三度の音程は内的、人間的な自然主義です。」
→建築、服飾芸術、彫塑、絵画は外的、音楽、詩は内的か。外的は、材料に強い感情をもち、内的は、人間の中?
●「悟性はふるい分けされたファンタジーです。」「ファンタジーは自然の成長力、形成力の最初の子どもです。」「私たちの腕を成長させるものは、魂の変容の中で、ファンタジーの中で詩的、芸術的に活動するものと同じ力です。」
→ファンタジーは思考とは正反対のものかと思ってましたが、ファンタジーがなければ、理解ではなく、そのままでしか受け取れない。見たまま、指示されたまま、言葉どおりのまましか受け取れない。指示された以上のことを汲み取るにはファンタジーが必要。指示された事しか出来ない人は、小さいころから、思考・判断・固定した概念などに慣れた人でファンタジーがないのだろう。
(所感)
芸術は、すごい人しかできないと思ってしまうが、神的なものを表現しようとしたもので、だれでも出来るものでは。植物を見て、見たままではなく、ある法則を見つけるとかも芸術といえるのではないかと思った。
- 2006/10/07(土) 16:46:01|
- 芸術と美学|
-
トラックバック(-)|
-
コメント:0