人智学から見た家庭の医学身体と心が求める栄養学に引き続き、健康関係の本を読んでみた。
この本は、半分ぐらいが、労働者のための講義なので「
健康と病気について」と重複しているところがところどころある感じ。「健康と病気について」は、労働者のための講義の3分の1なので、早く、残りの3分の2を訳してほしいと思う。(がんばれ!
ホメオパシー出版!
動物の本質はGOOD JOB!読まねば)
以下覚えておきたいと思ったところ。
●編訳者はしがきの中で
「夢見がちの子どもには塩辛いものがいいし、大人びた子どもには甘いものを食べさせるとよいものです。怒りっぽい子どもには、雑穀や生野菜、そして甘いものを食べさせます。気の変わりやすい子どもには乳製品を与え、砂糖と肉は控えめにします。のんびりした子どもには、雑穀・葉菜、塩味の効いたものを食べさせ、卵は避けます。そして、そもそも軽食にします。憂鬱な子どもには、蜂蜜や甘いものを与え、根菜は少なくします。」
→何歳の子どもを想定しているのだろうか?たぶん小学生ぐらいかな?自分の子どもは、いま幼児なので乳製品がよいのかなあ。(でも、
牛乳ではなく豆乳にしている。)
●「子どもがジャガ芋を食べ過ぎると、中脳が非常に弱ります。中脳には、重要な感覚器官の源があります。中脳背面の上下左右には、丘のような丸みのある高まりがあります。視丘・視床などです。ジャガ芋を食べ過ぎると視覚が弱まります。視覚の源泉は中脳にあるからです。」
→ガーン。私の目が悪いのは、パソコンのし過ぎではなく、子どもの頃にジャガ芋を食べすぎたせいか?よく肉じゃがは食べたし、ポテトチップスは食べたし・・・。
ここまで、シュタイナーがジャガ芋に言及するのは、よほど霊的には有害なのだろう。
●「人間は、第一に蛋白質の腐敗を克服でき、第二に脂肪の腐敗を克服でき、第三に澱粉と糖分の発酵を克服できるほどに強い」「個我が去ると人体は発酵し、アストラル体が去ると酸敗します。エーテル体が去ると、人体は腐ります。」
→人間にとって都合のいいのが発酵で、悪いのが腐敗と思っていたが、食物になんらかの自我があると発酵するということだろうか?(塩分も自我に関係しているようだし)
●「菜食主義者は、精神生活におもむかなければなりません。そうしないなら、肉食にとどまるべきです。そうしないと、記憶に障害をきたし、脳のある部分が損傷を受けます。精神生活の最高の領域を切り開くためには、果物で栄養を摂るだけでは十分ではないのです。」
→精神生活をしない人は肉食をしなければならず、体だけを考えて菜食にするのは問題があると。
マクロビをするならば、その精神を理解しないと、体がおかしくなるということか・・・。マクロビは健康法というよりは、生き方の考えみたいなものだからなあ。
●「パンは秘められた意味においては、植物を殺したときにできるものです。ワインも植物を殺すことによって、つまり植物を鉱物的に扱うことによってできます。植物を焼くのは、動物を殺すのと同じことです。私たちは植物界からワインを採るとき、ある意味で、動物から血を採っているのと同じです。パンとワインは第四亜人種の象徴です。」「未来に発展するべきなのは、菜食から鉱物食への上昇です。パンとワインは放棄されねばなりません。キリストは第四亜人種に現れるかぎり、パンとワインを示唆します。「これは私の体である。これは私の血である」と言うことによって、彼は肉食から菜食への移行、より高次のものへと移行をなそうとしました。」
→聖書のパンとワインが何を表しているのかは、ずーっと疑問だった。「地下に成長する植物も、太陽の生命原則によって熱していないので、死んだものです。根は、血の染み込んだ動物の体に相当します。」も関係しているような気がする。どちらにしても、菜食から鉱物食に移行していくことだけはわかったが、何が鉱物食かわからない。
●「私たちは初め、「星人間」として宇宙に行き、星々の世界からもたらした力を、頭から作用させます。そうして、私たちは「空気人間」になります。そして、性的に成熟するとき、私たちは初めて「地球人間」になり、地球に所属します。のちには、私たちを地球に束縛する事物に所属します。このように、人間は宇宙から地球に移ってきます。」
→私は地球に束縛されているんだろうなあ。子どもは、アストラル的なんだなあ。ふわふわして、周りの事物の調整をしているのだろうか?それが親には困ったことに見えるが必要なことだったりするわけだろうか。
●「目という微小な宇宙が内部にあることが必要なのです。「この微小な宇宙は本来、大宇宙に等しい」と私たちは思います。これを明らかにしなくてはなりません。」
→ヌース理論と同じかも。さらに、目は2つある。謎は深まるばかり・・・。
(所感)
医学というからもう少し難しい話が多いかと思ったが(シュタイナーなのでそれなりに難解な部分はあるが)、家庭の医学という範囲で集められた内容のようで結構読みやすい。
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- 2006/07/20(木) 13:07:35|
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身体と心が求める栄養学シュタイナーがどのように食べものを考えていたかを知りたくなり、「
健康と病気」も再再度読み(※1)、他に食べもの関係の本はないかとこの本を読んだ。
私自身の
玄米菜食をしているので、読んで結構考えさせられた。
「牛乳の生産には、特にエーテル体が関与しています。アストラル体はほとんど関与してません。」
→
母乳が重要なのは分かる。ちょっと納得いかないが離乳後の子どもには、
牛乳が必要らしい。子どもには、野菜を消化する際に霊化させる力がすくないらしく、すでに、動物によってエーテルの影響をうけた牛乳がよい食品であるようだ。また、人々を治療しようとする人(ヒーラーですね)も飲むとよいらしい。大人は、蜂蜜を少量。
菜食に適した人もいれば、肉食に適した人もいる。肉食は、菜食よりも、消化するための力が少なくてすむ。そのかわり、動物のアストラル的な影響を受ける。
健全な身体に健全な精神が宿るとよく言われるが、本当は、「健全な身体のなかに健全な心魂が働いている」らしい。
「どの人間にも、どこかに小さな欠陥を見出すことができるからです。しかし、欠陥を直すことが大事なのではありません。欠陥にも関わらず、生活に耐えられるものにすることが大事です。植物の幹に傷があるとしましょう。皮層・組織が、傷のまわりに成長します。人間も場合も同様です。欠陥のまわりに自然の力が成長して、生命を保ちます。」
→自分の欠陥をよりよくカバーしていれば、成長できるわけで、よく言われる「他人を褒める」ことはこのことを、お互い助長するわけだ。「一つの健康」というものはなく、人それぞれ、別の健康がある。「健康が楽しみをもたらし、病気が不快をもたらすなら、健康です。」とのことなので、ほとんどの人は健康?病気の方が楽しい人が居るのか?
「アストラル体は、外的な光に対峙するものです。太陽の光が弱くなり、色あせ、消えていくと考え、そのプロセスをさらに進めてみると、内的な光が現れます。この内的な光は、無機物から植物を構築する外的な光とは逆の課題を持っています。内的な光は部分的な破壊をもたらしますが、そのことによって人間は意識を有することができるのであり、人間を植物よりも高次の存在にしています。内的な光によって、人間は植物とは逆の存在なのです。そして、アストラル体によって引き起こされた破壊が、個我によって継続されます。」
→アストラル体と太陽は、逆の存在か・・・。意識はアストラル体によって生まれるか。それはそうだろうけど、なんかまとまらない。
(所感)
健康法は、人それぞれ違うということ。それは常々感じていた。結局、心魂的な部分が人間には大きな要因なのだろう。喜んで食べれば、一番体によい。喜んで生活できれば、健康に良い。精神が健康なら体も健康になれるようなので、病気はここ10年くらいしてないから、一応、精神は健康なのかなあ。しかし、その喜びが本当に自分の喜びかどうか?とか考えてしまう。私なんかは、何が喜びかも分からない。不健康ということか? 本当の喜び・・・、自分探し・・・、自分の使命を見つけるしかないと・・・。(いつもこの結論に行き着く)
(※1)「
健康と病気」は
ジャガイモの本とだと思っていたが、読み直すと新たな点に気づく。空気から吸収した窒素・硫黄、感覚をとおして得た水素、蛋白質からは炭素のみ、脂肪からも炭素のみを用いて、蛋白質と脂肪をわたしたちは独自の方法で製造する(P78~79)。「
農業講座」なかにも、食べ物から得られるものは徹頭徹尾、頭部や神経などに使用されているだけで、 他の部分は、周りの空間から摂取していると書いてあり、考えさせられる。
- 2006/07/10(月) 00:35:02|
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「
いか超」の読み合わせが
前回で終了し、新たに「芸術と美学」の読み合わせとなる。
シュタイナー 芸術と美学
ルドルフ シュタイナー (著), 西川 隆範 (翻訳)古本(
ユーズド商品
)が安かったので速攻で購入した。
P2~P16まで読み進めることができた。
◆人智学と芸術1
●「秘儀は本来、今日でいうと学校と教会と芸術施設を一つににしたものでした。」
→シュタイナー教育はそうゆうものという意味?
●「超地上的存在から感覚的存在へと下る前に魂であったものの死骸が、この思考なのです。」「私たちの地上的な思考は、私たちの地上に下る前の魂的生活の死骸なのです。思考の抽象性は死骸です。」
→本来の思考は、思考自体が芸術ということ?
●「観念の中に生きることを中止するために、形象によって思考しはじめねばなりません。特に、自然の中で最高のもの、人間の肉体はその形態を像として思考しなければなりません。」
→「
いか超」P61に「石には形態があり、動物にも形態がある。石は静かにおのれの場所に留まり続ける。動物は場所を移動する。場所を移動するように、動物を促すのは衝動(欲望)である。動物の形態もこの衝動に従って形成されている。その諸器官はこの衝動にふさわしい在り方をしている。これに対して石の形態は欲望に応じてはいない。欲望をもたぬ力によって形成されている」と記載されている。人間をみるとその形態から衝動がみえるのかな?衝動ではなく自我がみえるのだろうか?
●「墓地に立てられる墓石の芸術的な形態の中で、魂は死後の消息に通じるのです。宇宙の彼方へと通じる道が墓で作られるのです。墓は超感覚的なものから魂に与えられた覆いです。動物や植物は感覚的・自然的な要素を通して外皮を受け取っています。」
→私自身は墓地は要らないと思っているけど、それは唯物論的な発想なのだろうか?
●「私たちが抽象的な服の着方をやめれば、色彩との関係において、地上に生まれる以前に経験した生命的思考の残りをいかにわずかしか有していないかを示すことになります。つまり今日、抽象的に服を着ないようにすると、たいてい、趣味の悪いものを着ることになります。」
→現代では抽象的にしか服を着れないということ?もし、抽象的でなくすると、わずかしかないため、趣味悪くなるわけか?どちらにしてもしょうがないということか。
●「抽象的な思考ではなく、生きた像の形で見ると、それは頭の中にとどまろうとはしません。」「思考は頭以外のところで活動しはじめます。ことに、腕と指が思考の道具になりはじめます。腕と指の中で、思考は形態という形で生きます。こうして、彫刻家が生まれます。」
→人それぞれ、手と指が動いて、何かこの世界に表現しようとする行為を「し始めざるを得ない」事が生きた像なのだろうか?その表現したものがその人の使命になる仕事?
(所感)
わかりづらい。読みづらい。この文体に慣れるまで時間かかりそう。思考で理解しようとしないで、生命的思考をすればいいのかもしれないけど。
- 2006/07/07(金) 17:31:55|
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