まず、
前回の続きで新約聖書のヨハネ福音書の13章~の読み合わせ。
続いて「
いか超」の読み合わせ。
P139~P145まで読み進めることができた。
●十弁の蓮華の開花は、感情的印象そのものが意識的に支配できなければならない。無数の幻想を生み出す霊的恣意の源泉を制御する。注意を向けるにふさわしい事柄のみを自分に作用させ、そして受けいれたくない印象からは本当に自由でいられるように意志を鍛えねばならない。
●姿形と熱であった対象が、霊的な光と色を示すようになる。アストラル的特性。
●外的感覚の力が魂の感覚を抑圧し、窒息させている。
●筋の通ったあきらめは、今の境遇では達成不可能な事柄を達成しようと努力することよりも、はるかにおおきな成果を生み出し、魂の進化をより一層促進する。
●六弁の蓮華の開花は、感覚(体)、情念(魂)、理念(霊)の間が完全な均等を獲得する。
(所感)
無意識に見たものが、自分の印象に残り、それによって行動や考えが左右されないようにしなければならないということは、常にすべての感覚からの情報を意識しなければならない。普通の教育を受けた人には、難しいことに思える。そう思ううちは、無理にしないで、来世まで待つぐらいの覚悟で自然に思えるようになるまでじっと耐えることが必要なようだ。無理に、意識するとか、自分を変えようとすれば、ブレーキとアクセルを同時に踏んでいるようなに無理にしていることになる。まずは、根本の根本の根本の・・・原因に気づくことが重要なようだ。それにはエクササイズをすればいいのかなあ?
「達成可能な努力」と「達成不可能な努力」を見極めるのが難しいような・・・。これができれば、だれも苦労はしないのだから、これも修行か・・・。
スポンサーサイト
- 2006/02/24(金) 11:11:56|
- いか超 勉強会|
-
トラックバック(-)|
-
コメント:0
前回の続きの第十二講の読み合わせ
●頭は絶えず動物界を出現させたがっている。胸部や肢体が解消させられる。動物界を思考内容に留める。過度に動物的なものを生み出そうとすると、偏頭痛やそれに類した症状を生じさせる。
●胸部は植物を作りだそうとする強い傾向をもっている。頭と肢体が反抗する。その結果、人間は炭酸ガスを外へ放出して、植物を自分の中に生じさせない。外界で、人間は植物をその炭酸ガスから生じさせている。植物界はメタモルフォーゼを遂げた炭素なのです。人間の中に植物化の傾向が少しでも生じた瞬間に病気になる。
●「周囲の植物界の中には、私たちの病気すべての姿が現れている」
●肢体は、鉱物を絶えず分解しようとしている。結晶過程を生じさせると通風や糖尿病のような、非常に破壊的な病気が生じる。(自我は力の中に生きている。エネルギー体の中に生きている。エネルギー体が結晶を分解する?意思?)
(所感)
P189後半~P190前半がわからん!植物の結実過程=体内で酸素と結び付く=燃焼過程・・・。食べ物に火を通すことや太陽に当てることは、結実過程?「魂の働きとしての呼吸と、体の働きとしての自然過程の中間段階との不思議な関連」?「一体どのようにしてさまざまな熱が相互に働き合うのか」?「外なる植物における空気と水の相互作用が人間にどのように働きかけをするのか」?
「人間は自分の中で鉱物を分解し、自分の中で植物界を反転し、動物界を霊化するのです。つまり自分を超えて先へ進むという作業を行わなければならないのです、・・・」自我を超えて?ということか?
- 2006/02/19(日) 23:42:55|
- 一般人間学 勉強会|
-
トラックバック(-)|
-
コメント:0
まず、
前回の続きで新約聖書のヨハネ福音書の12章~の読み合わせ。
続いて「
いか超」の読み合わせ。
P123~P139まで読み進めることができた。
◆霊界参入が与える諸影響
●喉頭近くにある霊的感覚器官は、他の魂的存在の思考内容の在り方を霊視する能力がある。この器官は、十六の蓮華をもっており次の様に開発される。
- 自分の表象に対する注意力の喚起
- すべてに対してよく考えぬかれた根拠で決定をする
- 熟慮した上で発言する
- 隣人の行動や周囲の出来事と調和するように行動する
- 自然と精神に従った生活を送る
- 自分の可能な能力の範囲を確かめその上に立って行動する
- 人生からできるだけ多くを学ぼうと努力する
- 人生の意義と目的について反省する
(仏教の八正道と同一)蓮華を不健全に開発すると、臆病で嫉妬心や虚栄心の強い人、あるいは傲慢で我儘な人などになりやすい。
●神秘修行者が明晰な思考を大切にすること、話の通じ合える人物であることは、あらゆることに先立つ重要な条件である。
●心臓近辺にある十二弁の蓮華もまた、十六弁の蓮華と同じような仕方で育成される。知覚内容は、魂の暖かさ冷たさという言葉で類比的に特徴づけされる。
- 思考内容の非論理的な結びつきを排除(思考内容のコントロール)
- 自分の行為に対しても、同じ論理的一貫性を与える(行動のコントロール)
- 持続力の強化
- 不快な事柄に出会ったら、そこに含まれた必然的な部分を受け容れ、力の及ぶ限り事柄をよい方向に変えるように努める。相手の立場に立って考えようと努める。(忍耐の行)
- 自分に向ってくるすべてに対して常に心を開き、自分の行為に対してもその有効性を信じる。(信用の行)
- どんな苦しみや喜びに際しても、平静な気分を維持しつづけようと努める。(人生の均衡の獲得)
歪んだ形で形成されると悪へ向う危険に晒される。
(所感)
いわゆるチャクラの開発であるが、今回読んだところは、咽頭と心臓のチャクラの話である。基本的に、やはりというか、当たり前のことである気がする。八正道などは、日本人には馴染む深いが西洋では珍しいのかもしれない。
当たり前だけど、実際に実行するのは普通の教育を受けてきたものには難しい。シュタイナー教育を小学校だけでも受ければ自然に当たり前に行動できる人になるのだろうか・・・
- 2006/02/17(金) 20:08:52|
- いか超 勉強会|
-
トラックバック(-)|
-
コメント:0
残酷人生論―あるいは新世紀オラクル14歳からの哲学と同じ著者の本で、内容的には違うのだが、いいたい事は同じ様なことである。ただ、こちらのほうが、著者の言いたいことを著者の言葉で、短い文章でまとめた形で言っているので、私にはこちらの方が伝わりやすい書き方だと思う。(思考を思考することを忘れると混乱するけど。)
●「真善美は精神の本質」
一般人間学の第九講- 7歳まで「世界は道徳的である」という無意識の前提→善?
- 14歳まで「世界は美しい」という無意識の前提→美?
- 14歳以降「世界は真実でなければならない」と感じる素質が前面にあらわれる→真?
呼応している気がする。
●「倫理とは、自由である。そして道徳とは、強制である。」
シュタイナーの日本訳には「道徳」と訳されているところは実は「倫理」とした方が、しっくりくるのでは?と思ったり。
●「人生とは魂の歩みである」
「私」、「魂」、「死後は存在しない」など、似通っているキーワード。
思考を思考することで、シュタイナーの言っている事が自ずから出てくるんだなあと思う。著者は、純粋思考ができる人なんだと思う・・・。(でも、十分に理解しきれていない私であった・・・)
- 2006/02/10(金) 21:47:14|
- 本|
-
トラックバック(-)|
-
コメント:0
まず、
前回の続きで新約聖書のヨハネ福音書の11章~の読み合わせ。
続いて「
いか超」の読み合わせ。
P113~P122まで読み進めることができた。
◆神秘修行の諸条件
●第一の条件。肉体と精神の健康に留意すること。
●第二の条件。自分を全体生命の一部分と感じること。
●第三の条件。自分の思考と感情が世界に対して自分の行為と同じ意味を持つこと。
●第四の条件。人間の本質が外観ではなく内部に存するという観点を獲得すること。
●第五の条件。一旦決心した事柄は忠実にこれを実行する。
●第六の条件。自分に向ってくるすべての事柄に対する感謝の気持ちを養うこと。
●第七の条件。人生を以上のすべての条件にふさわしく形成すること。統一すること。
●新たな生命が促進される場合に限って、破壊に手をさし伸べることが許される。悪意に対するもっとも正しい戦い方は善意を実現することにある。無からは何も生じえないが、不完全なものはより完全なものに転化されることができる。
●成功への愛ではなく、努力への愛だけが進歩を促す。
(所感)
行為、言葉、感情、思考が同じレベルで世界に影響を与える・・・。といっても、自動的に考えたり感じたりしてしまうので、少なからず、それを行為や言葉にすることは慎重にしなければと思う。慎重にすることで、考えたり感じたりする原因が判明すればよりよくなるのでは・・・とは思う。
「精神不在の形式が無に等しいように、自分の形式を生み出せない精神があるとしたら、それは無力な精神」自分の形式を生み出せているのか?とも思う。生み出せていれば、もう少し経済的に良くなるのではと思ったりもする。精神が不在なのかな?
- 2006/02/10(金) 16:13:22|
- いか超 勉強会|
-
トラックバック(-)|
-
コメント:0
前回の続きの第十一講の読み合わせ
●生まれた時、頭はもっぱら体的、最も完全な発達を遂げた人体部分、夢見る魂と、まだ眠っている霊が存在。胸の組織は、体的、魂的であって、霊だけをまだ夢想する部分。肢体はまったく目覚めているのですが、まだ未発達であり、成熟していません。
●第二の歯が生えてくるのは、頭の形態が完成したのです。
●子供の不完全な霊ともっと不完全な魂だけを育成すればよいのです。(7歳以降は、ということ?もっと不完全な魂?)7歳までは、自然の霊が教育(ある程度頭の霊を目覚めさせる)してくれる。
●低学年の時期に、つまり子どもがまだ私たちに心を開いてくれている間に、読み書きを芸術的な仕方で子どもに教えなければならない。胸部組織を通して成長してくのです。
●人間をノッポにするものは、すべて記憶力の育成と関連しているのです。あまりに想像力を要求する時には、子どもの成長を引き止めます。
(所感)
教育とは自然の働きによる成長(体、魂、霊)を妨げないように社会の中で生きるための文化習慣を学ぶことか?今の教育は成長を妨げながら、文化習慣を学ばせている?
現代科学で母乳にダイオキシンがあるからといって、飲ませないのは頭の霊を目覚めさせないことになる。
眠れる意思と目覚めている肢体・・・。まとまらない。
- 2006/02/06(月) 12:19:28|
- 一般人間学 勉強会|
-
トラックバック(-)|
-
コメント:0

とうとう完成した。
シュタイナースクールいずみの学校ではどんなことを学ぶのか?その記録です。子供たちの実際のノート(
メインレッスンブック)や写真も掲載されています。年齢に応じた教育の実践例があり、シュタイナー学校がどんなものかが分かるのではないでしょうか。後半に資料編があり年齢別のテーマがまとめられています。(勉強にもなりそう)
目次だけスキャンしてみました。

詳細は、
いずみの学校HPで
[私との関わり]
2005年9月ごろ、ファクトブックを作りたいので仕事を頼みたいと連絡を受け相談にのったというのが始まり。
その時点でワープロのWordで製作し、編集委員自ら家庭のプリンターで印刷し、さらに一人で製本したファクトブックがあった。
この作業が非常に大変なので、印刷・製本を業者に頼みたいがWordのままでは見栄えも悪い。
そこで、イラストレータに変換してほしいという仕事の内容でした。しかし、その後、いずみの学校の父母の方がイラストレータを勉強しながら、自力でやってのけた。イラストレータは何がなんだかわからないぐらい機能がある。初めての人は、きちんと勉強しないで触ると「二度としたくない!」と思うハズ。すごい!努力の人だ!
そんな努力の結晶が出来上がった。自費出版で1500円は安いと思う。
結局、私は何もしなかったのでした。
- 2006/02/02(木) 23:09:12|
- 本|
-
トラックバック(-)|
-
コメント:0
まず、
前回の続きで新約聖書のヨハネ福音書の10章~の読み合わせ。羊飼い(キリスト)が「自我」で、柵の外が「自我」に目覚めていない人。柵の中が霊我以上の状態。柵の中が羊が羊飼いによって自我に目覚めた人々。だが、羊飼いの門を通らずに入るのは盗人(異端者?マガイモノ?)。
続いて「
いか超」の読み合わせ。
P102~P113まで読み進めることができた。
●常に怒りを克服しつつ、恐怖、迷信、独断、虚栄心、功名心、好奇心、饒舌や、差別する態度も克服しなければならない。
●「私が他人と異なる意見をもっているかどうかはどうでもよい。大切なのは、私の方から何かをつけ加えたら、その人が自分で正しい事柄を見出せるようになれるか、ということだ」一切の神秘修行の
主要手段の一つである温和さを獲得する。
●「ふさわしい成熟に達したなら、いつかはそうあるべき自分になるであろう」恣意的に高次の力を引き寄せようなどとは決して思うな。この教えを守らねば、どんな努力もむなしい。
●子供のころ、都会の中で過ごした人は、
バガヴァッド・ギーター
、
ヨハネ福音書
、トマス・ア・ケンピス(
キリストにならいて、
キリストにならう)で魂の養分とするべきであろう。
◆神秘修行の諸条件
●神秘修行の諸条件は確かに厳しいが、しかし苛酷ではない。(斉藤一人さんの言葉「やってやれないことはない。やらずにできるわけがない。」を思い出してしまう)
●第一の条件。肉体と精神の健康に留意すること。完全な霊的健康のための努力である。不健全な心情生活と思考生活はどんな場合にせよ、人を高次の認識への道から遠ざける。
(所感)
結構当たり前のことが書かれているし、さすがに実践的観点だけあって、日常思い当たる点が多い。分かりやすいだけに、誤解しやすいという気もする。「その人が自分で正しい事柄を見出せるように」あくまで、他人を変えることはできない。変える事ができるのは自分だけである事をわきまえていないと押し付けになる。
シュタイナー関係に分裂が多いのは、「温和さ」が足りないのではないか?とも思うが、お互い妥協できないところまで行くのは、表面的な「温和さ」は偽りであると感じているからだろう。しかし、分裂までいくのは、両方とも何かしら間違っているからではないだろうか。どちらかが真理、または、真理を真に求めて努力していれば「温和さ」を発揮でき(自分に非がある部分を認め)、分裂までは行かないのではないかと思う。正しい正しくないよりは、協調できる点(真理、目的、求めるもの)に対して協力することはできると思うのだが。
読めば読むほど、同じようなことが書いてある気もするが、色々な角度で書いてあるという感じである。それだけ誤解を受けやすいのだろう。(一言で言えば、「忍耐、努力」ともいえるが、これだけだと誤解が生じる。自分を殺した「忍耐、努力」はむなしい)
- 2006/02/02(木) 17:23:01|
- いか超 勉強会|
-
トラックバック(-)|
-
コメント:0