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シュタイナー、したいなあ

シュタイナーについて思うこと

社会の未来


社会の未来 シュタイナー選集 第 9巻
ルドルフ・シュタイナー (著), 高橋 巖 (翻訳)


社会三層構造の本。

この本を読むまでは、実践されている「経済の友愛」が正しいと思っていたため、シュタイナーは経済に疎いのではないかと思っていた。

この本を読めば、実践されている「経済の友愛」(あくまで私が知る限りだが)が正しく実行されていないことが分かるのではないか。

社会三層構造は、
社会の理想だがこれを個人からの視点で見るとどうなるのか?

社会的に価値あるものを自分の労働により作り出さないと、誰からも、何も交換できない事になる。(最終的な理想の社会では、交換する必要もないが、その代わり人間としての存在意義がなくなるような感じを自分自身が感じて、今の社会で生きるよりも苦しくなりそう。)

会社で時間を費やしているだけでは、本来、給料を得るべきではない。逆に、価値あるものをつくりだしているならば、会社によって価値以下の給料で働いていることになるかもしれない。

自分に価値あるものが作り出せるのか?と思う人もいるかもしれない。(正直、私もそう思ったりする時もある。)

また、いくら価値があるものを作り出せても、やりがい(精神)がなければ、続けられない。

そうなれば、結論は一つである。
やりがいがある事で価値あるものをつくれるようになればよい。
大好きなことをしてお金持ちになる
大好きなことをしてお金持ちになる



本当に自分のしたいこと(使命)ならば
それは芸術になるはずである。芸術であれば、社会的な価値が必ずあるはずである。(と思うんだけど)

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  1. 2005/04/16(土) 21:16:23|
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実践されている「経済の友愛」

(2005年4月現在、私の知っている中で実践されている「経済の友愛」だけに限定した話である事をまずお断りしておきたい。他の事例があれば修正予定。)

シュタイナーを勉強していて一番の疑問は、「経済の友愛」。

社会三層構造」の中の一つ。

具体的にどのように運用されている経済か?
例としては、ある共同体なり会社なりの団体内の経済、要は給料や金銭の授受の仕方だ。

その団体の収入を給料として割り振る場合、普通、それぞれの貢献度や仕事量に応じて割り振るのが、「経済の友愛」を適用すると、そんなことは関係なく、それぞれの人がそれぞれの価値感で毎月、これだけの給料がほしいと申告する。

何日働いたとかも関係なく、一月の必要な生活費などや、例えば、今月は、遠距離恋愛している彼女のところへ行くので、その分を追加して申告できるわけだ。逆に、その月に使用しないお金などは入れられない。(将来、子どものための貯蓄は、よいかもしれない。)

全ての申告をまとめると、当然、団体の収入より多くなる訳で、多くなったら、全員集まって、誰の分を減らすのかなどを相談して決めるというやり方だ。逆に、余った場合は、誰の分を増やすか、どう使用するかなどを相談する。

当然、シュタイナー関係の団体なため、そんなにわがままな申告をする人はいない(日本人の特性として自分から請求はしにくいだろう。我慢しすぎる人もいるだろう)。シュタイナー関係なだけに収入自体が少ない。

また、団体の働き手として受け入れる際、どれくらいの生活費が必要かを聞いて、この人の能力ならば、その金額を支払ってもよいと思う場合に、受け入れるのである。

少し考えれば、どう考えても成り立たないというのは自明の事だ。
給料が労働基準法の金額を下回る事だってありえる。ほぼ、ボランティアを覚悟の上で関わるしかないのが、現状の「経済の友愛」だ。よほど裕福な人ばかりが集まるか、スポンサーがなければ成り立たない。

社会の未来」を読んで思ったのは、
上記のような「経済の友愛」は社会三層構造の「経済の友愛」ではなく団体内のルールにより、経済の独立性をなくした「経済の友愛」である(※)。(と思うけど)

(※)労働時間により、給料を決めてはならないとされてはいるが、自分の労働により生じた社会的な価値がどれほどのものか全く考慮されていない。もし、社会的な価値が考慮されていても、団体の収入が少ないことにより、その価値を減少させるというルール(法)が適用されている。

  1. 2005/04/16(土) 20:58:42|
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社会三層構造

「精神の自由、法の下の平等、経済の友愛」を理想とする社会。

さらに、精神・法・経済(貨幣経済ではなく交換経済)がそれぞれ独立したものでなければならないとしている。

よくよく考えてみれば、当たり前のことかもしれないが、現実社会は逆なことも多い。

●やりたくもない、または必要とされていない仕事をお金のためにする。→「精神の自由」がない。お金と精神が独立していない。
●対等であるはずの人間関係がお金や身分で変わる。→「法の下の平等」ではない。お金と法が独立していない。
●経済は、同じ価値のものを交換することが前提なのに、お金や物を移動させるだけで、価値が上がったり(お金が増えたり)する。→「経済の友愛」ではない。お金がお金を生んでいる。

最初、現状の資本主義経済で一番難しいのは、「経済の友愛」かと思ったが、「精神の自由」だと思う。

「精神の自由」というと、
・教育の国家から解放や
・教育をいかに経済から左右されないようにするか
が重要らしいが(シュタイナー教育からシュタイナーを知った人が多いからだろうが)、それよりも、日々の生活の中の「精神の自由」が一番重要だと思う。自分の人生にとって、何がしたいか?何が幸せなのか?何が楽しいのか?が分かっていない。さらに言えば、「自由」とはなにか?さえ分かっていないのではないだろうか・・。

参考:
未来の社会
実践されている「経済の友愛」

以下はシュタイナー的に言われていること(勝手に解釈しているところも)。
●国家が教育の方針を決めることがおかしい。
(→教育に関わる先生や親などで自主的に決める)
●経済を調整するための法律はおかしい。
(→経済は同じ価値のものをただ交換する。)
●労働時間で金額が決まるのはおかしい。
(→労働時間ではなく、労働によってできたものが社会的にどれほどの価値が発生したかで金額が決まる。逆に価値のないものにいくら労働時間をかけても価値はない。
大企業は、価値のないものでも、作ってしまったものはCMや営業で価値あるものと思わせて売ってしまう。シャンプーがよい例である。)



(間違っていたら修正する、他に思いついたりしたら、追加する。以下はメモ。)
人体の中に精神活動に関わる頭脳=神経系
物質活動に関わる代謝=運動系
両者の動きを相互に調和的に結びつける呼吸=循環系


人体  | 魂  | 社会
------------------------------------------
神経系 | 思考 | 精神生活における自由
運動系 | 意思 | 経済生活における友愛
循環系 | 感情 | 国家=法生活における平等

  1. 2005/04/16(土) 20:43:56|
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本当の意味での金持ち

芸術を生み出し、社会的な価値を生み出している。

だからこそ、社会から必要とされ、必要とされれば、どんな形にしてもお金が集まってくる。

一時的な金持ちもいるけど、
それはそれで、アーリマン的な存在なのではないかと思う。
(アーリマン的なものも社会には必要らしいので)

  1. 2005/04/16(土) 20:38:13|
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社会的に価値のあるもの

社会三層構造での社会的な価値とは、その分野の専門家が判断することにより決まる。その価値を作り出すために要する期間が問題であり、作り出す人の生活が賄えるかが基準になる。(現在の現実社会としては、金額が決まることにであるが、現状の金額は、需要と供給などの別の要素で決まるため、価値ある仕事をしても生活できないなどの問題が生じ、価値あるものが存続するとは言いがたい。)

現在は、社会的価値のないものでも売れるようになっている。それは、広告や思い込みなどによって売れている。そのようなものはいくら作り出しても本来社会的な価値はないので作り出す人の生活をまかなうとかというレベルの問題ではなくなってくる。(社会的価値あるものを一番最初に知らしめるために広告することは意味あることと思うが、いつまでも広告しているようなものは、やはり社会的価値がないのであろう。)

個人的に思っているは、
芸術と似ているが「社会的に価値があるもの」とは「社会を進化させるもの」と定義してもよいのではないかと思う。一般的に人々が喜ぶものと考えてもいいが、いくら喜ぶといっても消費を増殖するように仕向けられたようなものは社会的に価値があるものとは違う気がする。

少なからず、進化も衰退もしないで同じ事を繰り返しているのは社会的には価値がなく、まだ、衰退(倒産)するほうが社会的には意味があると思う。同じようなトラブルを繰り返しているのであれば発展(進歩)していない証拠ではないか。私個人でもそのような一面は少々あるが、団体として同じトラブルばっかりというのは考え直したほうがいいのだろう。

  1. 2005/04/16(土) 20:32:58|
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芸術

私の中での芸術は、普通に言われている芸術とはちょっとニュアンスが違う。私の定義では、「人間の進化を促進させるもの」が芸術であると思っている。

そのように定義すると、金持ちが、芸術品を好きなのが分かるような気がする。

  1. 2005/04/16(土) 20:31:36|
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シャンプー

シュタイナーとは全然関係ないが
 社会的な価値の面や
 経済的な面で
考えさせられる商品。

個人的にはエコロジーや玄米菜食に目覚めてからは、シャンプーは使用していない。
参考:シャンプーで禿げる!かゆい!【合成洗剤恐怖の人体実験】★阿修羅♪
このようなサイトのように過激なことを言わなくても、普通に論理的に思考すれば、自分にあったものを選択できるのではないだろうか?

シャンプーは何のために存在しているのか?
(シャンプーに社会的な価値があるのか?)

元来、人間の皮膚は、普通に分泌される皮脂が一番体にあったものである。
参考:まずは洗顔。洗いすぎていませんか?

石鹸程度のものは必要だろうが、あの合成界面活性剤の洗浄力は必要なのだろうか?(シャンプーに限らず、ボディーソープや台所洗剤、洗濯洗剤に含まれる合成界面活性剤が残留してアトピーの原因、または、悪化の原因になるとも言われている)

石鹸シャンプーというものもあるので、一概には、石鹸とシャンプーだけで比べるのもおかしいのだが、シャンプーというよりは、合成界面活性剤を含むものを、習慣的に使用しているだけだったり、CMによるイメージだったりであれば、色々と調べてから使用を考えたほうがいいだろう。(シャンプーは有用なものであるというイメージをCMで作られただけではないのだろうか?と考えてしまう。シャンプーがなかった時代でも、人々は不自由なく暮らしていた。何が変わったためシャンプーが必要になったのか?)





  1. 2005/04/16(土) 20:30:21|
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赤ちゃんは自我がない ゆえに かわいい

赤ちゃんや幼児はなぜにかわいいのか?

シュタイナー的な言い方をすれば、自我がないから。(厳密にはないわけではない。)

幼児がいるだけでかわいい。この動作がかわいいとかではなく、ただ、立っているだけで、存在しているだけでかわいいのである。

うちの2歳児の息子は、どこか出かけると、知らぬ間に、お菓子を持っている。通りがかりのおばーちゃんがくれたりしているのだ。

動物も同じかわいさであろう。

シュタイナー的に精神の進化とは、大人(自我を持った状態)でも、かわいいと思われるようになればいいのではないかと思っている。

精神世界系でも他の言い方をされている。「人は本来、愛される存在である。」

そのためには、自分をそのままにありのままに表現・行動すればよい。仏教的には、無心になるということだろう。

だが自我があるということは、偏見や先入観、習慣などもついてくるので、どうゆう自分がありのままであるのかわからない。

でも、かわいい大人を時々見かける。

そんな心の状態になりたいと常々思って、息子を観察する。

  1. 2005/04/01(金) 11:53:00|
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