「
いか超」の読み合わせ。
前回の続きより
P209~P221まで読み進み、とうとう読み終わった。
◆生と死 - 境閾の大守護霊
●「その不完全さは同じこの世の現実の中でしか、完全にすることができないこと」
→肉体をもたないと、完全な形へ進化できない。死んで霊界に行ったとしても、進化できないということか。超感覚的な能力もこの世でしか獲得できないそうだ。
●「超感覚的世界は感覚世界への移行を必要とした。その世界は、その移行なしにはそれ以上発展しえなかったであろう。」
→感覚世界から理想的な世界(超感覚的世界)へ帰るというイメージを持っていたが、超感覚的世界も変化するわけだ。帰ったら、以前とは全く違うのかもしれない。(以前を覚えているかは定かではないが)
●「死とは、かつての超感覚的世界がもはや自分自身によってはそれ以上前進できない地点まで到達してしまったことの表現以外のなにものでもない。」
→生きている私は、まだ進化できるということか?
●「人が常に白い道を選ぶという保証はどこにもない。」
→境閾の小守護霊から境閾の大守護霊への段階でも、自分の利益にこだわるような人がいるのか!?と思ってしまう。自分の利益にこだわるならば、ここまでこれないのではないのかと思うのだが。
●「弟子が自分の意志で献身的に共に働こうとするようになるまで、弟子を超地上的世界から引き離しておくことも導師の使命である。」
→超感覚的世界が見れないのは、資格がないということか。焦ったり望んだりすること自体おかしいということか。超感覚的世界の獲得は、望むものではなく、結果として獲得されるものであるということですね・・・。どうしても望んでしまうのですが・・・。
(所感)
今回で、「いか超」は終わり。エクササイズしてないなあ。
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- 2006/06/24(土) 13:39:18|
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「
いか超」の読み合わせ。
前回の続きより
P197~P208まで読み進めることができた。
◆境閾の守護霊
●「霊妙な身体部分(エーテル体とアストラル体)の内部で、意志、思考、感情の間の結合帯が解かれはじめたとき、人間は前者の守護霊と出会い、この結合帯の解消が身体の肉体的部分(特に頭脳)にまで及ぶとき、「境閾の大守護霊」と向き合う。」
→魂の十二感覚とか、魂の諸力の思考・感情・意志とか言われるので、魂の中にあるのかと思ったりしていたのだが、エーテル体もやはり関係しているのか…。そこで、「意識」を理解していないことに気づく。意識がなければ、思考・感情・意志は存在しようがない。「意識」を調べると…、2ページ強にわたり書いてある!(
シュタイナー用語辞典P41~P44) 「過去から未来へと向かう無意識の表象の流れ(エーテル体)と、未来から流れてくる心魂内の欲望の流れ(アストラル体)が交わることによって意識が発生する。」とあり、やっぱりエーテル体も関係している訳だけど、まとまらない。「意識」を意識して今まで読んでいなかったことにも気づく。
●「たとえどれ程恐ろしい姿に見えようとも、この守護霊の姿は修行者自身の過去の生活の結果に過ぎない。この姿は過去の生活が作り上げた修行者の性格である。」
→意志、思考、感情の分離しても、恐ろしい姿なのであれば、分離する前はもっと恐ろしい姿ということか。だから、見えないで色々なアクシデントなりで導いているのかもしれない。
●「修行者は境閾の守護霊と出会った時から、彼自身の個人的な立場を意識するのみならず、民族や種族によって与えられた使命に対して意識的でなければならない。」
→普通の人は、無意識で、民族や種族の意図に従って働いているようだ。でも、目覚めてしまったら、意識的に、その意図を自分に付け加えることになるように思うようだ。そう思えないのは、意志、思考、感情が分離していないからで、分離すればそう思うようになるようだ。なんだか、操られているような感じだ。
●「血族、民族、人種の守護霊たちがそのありのままの姿を現す。」
→ということは、この守護霊よりも、高次の段階まで進んだということか。それは、遠い遠い先の話だ。
(所感)
カルマは、一般的には、悪いことの様に思われているが(私だけ?)、自分のカルマは、自分のしたいこと使命であるということだ。カルマを増やすともよく言われるが、それは、本来進むべき方向ではないことをしたため、それを修正するためにしなければならないことであり、本来の使命を行えるためのもの。また、カルマには外的なカルマと内的なカルマが存在し、外的なカルマは、他の人がしても良いようだ。シュタイナーがしたゲーテの仕事は、実際は他の人のカルマだった。
あと、一回で、「いか超」も読み終わる。次は「
芸術と美学」
- 2006/06/09(金) 11:41:47|
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いか超」の読み合わせ。
前回の続きより(先々週が無くなったので、1ヶ月ぶり)
P185~P196まで読み進めることができた。
◆神秘修行における人格の分裂
●「人間の霊妙なエーテル体とアストラル体の中で、思考、感情、意志という三つの魂の力の各中心点が規則的な仕方でお互い結びついていることによるものである。」「肉体においても、意志の器官は思考や感情の器官と規則的な仕方で結びついている。」
→意志・思考・感情がはっきりしない。
例えば、
シュタイナー用語辞典P40の「意志」に「
- 物質的身体においては本能
- エーテル体においては衝動
- アストラル体においては欲望
- 個我においては動機
- 精神的自己においては願望
- 生命的精神においては意図
- 精神的人間においては決断
として働く。」とあり、ますます混乱する。
●「人間の霊的進化に際して、これら三つの基本的な魂の力を結びつけていた糸が断ち切られる。」
→霊的進化をすることは、結構大変な事のようだ。本来、高次の存在が、導いている力を断ち切らねばならない。具体的には、病気になったり、感情的になったり、はたまた、他人からの注意・指摘などは、高次の存在の導きなのかもしれない。すべての出来事に意味があるということか。。その意味を理解せずに突っ走るのはよくないようだ。
●「誤謬は、高次の意識が相互に分裂した三つの力をいつでもふたたび自由に調和させうる能力を獲得する以前に、すでにこの分裂がはじまってしまった場合に生じる。」「修行者の陥りがちな三つの邪道である。すなわち暴力的人間、感情的耽溺、愛情に欠けた冷たい認識衝動である。」「治療を必要とする精神病患者、あるいは重度の「神経症」患者と見放されてしまうであろう。勿論神秘修行者が精神病患者に似ることは許されない。」
→ 焦って、意志・感情・思考を分裂させるのは、弊害の方が多いので、高次の認識、つまり、睡眠時にも覚醒できるようになり、日常生活と関連付け出来るようになるほうが先にする必要がある。
(所感)
思考と感情の分離が重要であると以前あったと思ったが、あまりに早く分離させると、高次の導きの糸を断ち切ってしまうようだ。導きなしでも大丈夫になるまで、焦らない焦らない・・。何でも、自分が動けば変わるというわけではなく、周りの動きと歩調をあわせ、少しずつ淡々とするしかないようだ。
- 2006/05/25(木) 22:51:37|
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いか超」の読み合わせ。
前回の続きより
P175~P184まで読み進めることができた。
◆意識の持続性の獲得
●「もっぱら感覚的知覚だけに頼ろうとする人は、その作用の原因にまで到ることはできない。」「感覚界の事物は決して感覚的知覚に現れるだけのものではない。それは或る霊界の表現であり、流出である。」
→普通に感じている物質世界には原因があり、その原因を見ることができるようだ。
●「夢のいとなみの中にありながら、もはや夢とは言えぬようなこの新しい状態の中の神秘修行者には、これらの原因が部分的にではあるが、打ち明けられる。」「夢のいとなみの中に現れた状態を、覚醒時の意識の中にまで持ち込むことが修行者の次なる課題となる。」
→夢のいとなみを認識できるような状態にでき、それを起きているときの意識にも持ち込めれば、物質世界の原因(霊的世界?)が見えるのか。
マクロビオティックでは、夢を見ない(深い眠りのみで夢を見ない)方が健康であるとされているのだが、これならば見たほうが霊的修行になるのだろうか?夢のいとなみを認識できなければ見ないほうがマシということだろうとは思うのだが。
●「この状態と修行者の日常生活との関係は、ちょうど通常の人間が積極的に感覚を働かせる場合と受動的にしか感覚を働かせない場合の関係と同じような意味を持っている。」「神秘修行者が魂の感覚を働かせると、肉体的感覚には隠されている事物が見えてくる」
→普通の物質世界は、受動的な感覚で捉えられてもので、積極的に感覚を働かせる、つまり、魂の感覚(十二感覚?)を使えば、原因まで見えるということか。
●「深い眠りの中での体験が意識できるようになった修行者の次なる課題は、それを可能な限り明確にすることである。」「これまでは、ただ思考だけで把握してきた事柄が、今まで感覚的に対象を知覚するのと同じ確かさと具体性をもって、体験できるようになる。」「神秘学は睡眠生活の意識化をもたらすこの重要な段階を意識の連続性と呼ぶ」
→夢が認識でき、さらに深い眠りまで意識できるようになるのか。意識が途絶えることがなくなるんだ。深い眠りを意識できるようになれば、思考や概念がはっきり意識できるようになるのか。思考や概念が現実世界の原因ということか?
●「集中と瞑想の行を通して、修行者は自分の魂に働きかける。そして魂の中に、霊的知覚感覚器を育成する。」
→集中と瞑想か・・・。「厳格に遵守されねば」「流産して」しまうようなので、焦らずにするしかないようだ。
(所感)
だいぶ、先の話ではあるが(今生ではできないかもしれない)、物質世界がどんなものであるかが伺える文章があるのが面白い。積極的に感覚を働かせるとはどんな感じなのかイメージさえできない。それだけ、受動的な感覚に慣らされている、物質的に慣らされているということだろう。
- 2006/04/28(金) 11:35:15|
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いか超」の読み合わせ。
前回の続きより
P156~P174まで読み進めることができた。
●「高次の世界の中では人間の魂的本性が鏡像となって、その人間に立ち現れてくる。」「その現れ方が、現実に存在する姿の逆の相として現れるからである。」「たとえば、285という数は本当は582を意味している。ひとつの球は、まるでその中心から見る時のように、現れる。」
→エーテル界も逆?アストラル界も逆?この逆の意味はそれぞれ違うような・・・
●「胎児が母胎内で育つように、霊的人間は物質界の自我の中で育つ。」「高い自我が霊界で十分発達した存在として出現するためには、このような地上生活での作業がどうしても必要になる。」
→物質界で生きることが「どうしても必要」・・・。どうしても必要なのか・・・。分かるような完全には分からないような。
●「高い自我を知ること、低い自我へのこの自我の受肉の教え(すなわち輪廻転生とカルマの法則)を知ること、および最後に偉大な霊界参入の存在を知ることである。」
→高い自我とはハイヤーセルフ?輪廻転生やカルマも一般的に言われているものとは微妙に違うのでは?偉大な霊界参入の存在は結構近くにいるってこと?
◆神秘修行者の夢に現れる変化
●「蓮華が開花したときはじめて、物質界に属さぬ情報が夢の中に記されるようになる。次いで進化したエーテル体を通して霊界に由来するこの記録について豊かな知識が生じる。」
●「霊的対象の「中に」いるように感じる。彼は実際、霊的空間の中を方々さまよい歩く。」「さすらい人」
●「自由な観点から、その故郷を尺度にして判断することができる。」「この霊的故郷の建設を「小屋を建てる」と呼ぶ」
→霊的空間をさすらい、小屋を建てるとは、やはり現実世界は、霊的なものの影?または、練習場?みたいなものなのだろうか?
(所感)
さすらい人と聞いて、まるで、現実世界をあちこち引っ越している私みたいと思ってしまった。霊的世界でさすらってればいいけど、現実世界でさすらっているようではダメなのかな?現実世界で、まずは小屋を建てなくては・・・。
- 2006/04/14(金) 00:24:21|
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前回の続き「
いか超」の読み合わせ。(今週から新約聖書のヨハネ福音書の読み合わせはしないことになった。)
P146~P155まで読み進めることができた。
●これまでのアストラル体の開発だけでなく、エーテル体もまた開発されねばならない。
●見霊者は夢想家となることは許されない。足をしっかりと大地の上に置かねばならない。
●現代文化に生きる人は仏陀の言葉に見られる多くの繰り返しを正しく理解できない。しかし、修行者にとってこの繰り返しは、自分の内的感覚が好んでその上に憩うことのできる場所になる。
→お経のことだろうか?確かに繰り返しがよくある。これがここちよいものだと感じれるようになるわけか・・・。日本人的には古臭く感じるとは思うが、私個人としては嫌いではないという程度。
●試練の途上で獲得されねばならぬ四つの特性。
・真理を個人的見解から区別する能力
・真なるものを正当に評価する能力
・前章の六つの徳性
(思考の制御、行為の制御、持続、忍耐、信念および平心の育成)
・内的自由
「すべて無常なものは比喩に過ぎない」(ゲーテの言葉らしい)
→内的自由とは精神の自由?
自由の哲学を読まねば・・・。
●徳性が魂の習慣になると、自分の個人的な諸能力だけに関連した一切のものから自由になる。自分の狭い個人的な立場に拘束する枠が消える。
●自分を完全なものにすることは決して利己心のあらわれではない。「薔薇が自分を美しく飾る時、庭園もまた美化される」
(所感)
アストラル体の開発だけでなく、エーテル体の開発まで・・・。エーテル体は不随意な内臓などを不随意でなくするらしい。それはすごいというか大丈夫だろうか?と思ってしまう。そこまで、修行が達成されていれば、大丈夫だとは思うけど。
「完全なものにすることは決して利己心のあらわれではない」とあるが、「完全なもの」の解釈を間違えると、利己心のあらわれになりそうだ。
- 2006/03/13(月) 22:34:52|
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まず、
前回の続きで新約聖書のヨハネ福音書の13章~の読み合わせ。
続いて「
いか超」の読み合わせ。
P139~P145まで読み進めることができた。
●十弁の蓮華の開花は、感情的印象そのものが意識的に支配できなければならない。無数の幻想を生み出す霊的恣意の源泉を制御する。注意を向けるにふさわしい事柄のみを自分に作用させ、そして受けいれたくない印象からは本当に自由でいられるように意志を鍛えねばならない。
●姿形と熱であった対象が、霊的な光と色を示すようになる。アストラル的特性。
●外的感覚の力が魂の感覚を抑圧し、窒息させている。
●筋の通ったあきらめは、今の境遇では達成不可能な事柄を達成しようと努力することよりも、はるかにおおきな成果を生み出し、魂の進化をより一層促進する。
●六弁の蓮華の開花は、感覚(体)、情念(魂)、理念(霊)の間が完全な均等を獲得する。
(所感)
無意識に見たものが、自分の印象に残り、それによって行動や考えが左右されないようにしなければならないということは、常にすべての感覚からの情報を意識しなければならない。普通の教育を受けた人には、難しいことに思える。そう思ううちは、無理にしないで、来世まで待つぐらいの覚悟で自然に思えるようになるまでじっと耐えることが必要なようだ。無理に、意識するとか、自分を変えようとすれば、ブレーキとアクセルを同時に踏んでいるようなに無理にしていることになる。まずは、根本の根本の根本の・・・原因に気づくことが重要なようだ。それにはエクササイズをすればいいのかなあ?
「達成可能な努力」と「達成不可能な努力」を見極めるのが難しいような・・・。これができれば、だれも苦労はしないのだから、これも修行か・・・。
- 2006/02/24(金) 11:11:56|
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まず、
前回の続きで新約聖書のヨハネ福音書の12章~の読み合わせ。
続いて「
いか超」の読み合わせ。
P123~P139まで読み進めることができた。
◆霊界参入が与える諸影響
●喉頭近くにある霊的感覚器官は、他の魂的存在の思考内容の在り方を霊視する能力がある。この器官は、十六の蓮華をもっており次の様に開発される。
- 自分の表象に対する注意力の喚起
- すべてに対してよく考えぬかれた根拠で決定をする
- 熟慮した上で発言する
- 隣人の行動や周囲の出来事と調和するように行動する
- 自然と精神に従った生活を送る
- 自分の可能な能力の範囲を確かめその上に立って行動する
- 人生からできるだけ多くを学ぼうと努力する
- 人生の意義と目的について反省する
(仏教の八正道と同一)蓮華を不健全に開発すると、臆病で嫉妬心や虚栄心の強い人、あるいは傲慢で我儘な人などになりやすい。
●神秘修行者が明晰な思考を大切にすること、話の通じ合える人物であることは、あらゆることに先立つ重要な条件である。
●心臓近辺にある十二弁の蓮華もまた、十六弁の蓮華と同じような仕方で育成される。知覚内容は、魂の暖かさ冷たさという言葉で類比的に特徴づけされる。
- 思考内容の非論理的な結びつきを排除(思考内容のコントロール)
- 自分の行為に対しても、同じ論理的一貫性を与える(行動のコントロール)
- 持続力の強化
- 不快な事柄に出会ったら、そこに含まれた必然的な部分を受け容れ、力の及ぶ限り事柄をよい方向に変えるように努める。相手の立場に立って考えようと努める。(忍耐の行)
- 自分に向ってくるすべてに対して常に心を開き、自分の行為に対してもその有効性を信じる。(信用の行)
- どんな苦しみや喜びに際しても、平静な気分を維持しつづけようと努める。(人生の均衡の獲得)
歪んだ形で形成されると悪へ向う危険に晒される。
(所感)
いわゆるチャクラの開発であるが、今回読んだところは、咽頭と心臓のチャクラの話である。基本的に、やはりというか、当たり前のことである気がする。八正道などは、日本人には馴染む深いが西洋では珍しいのかもしれない。
当たり前だけど、実際に実行するのは普通の教育を受けてきたものには難しい。シュタイナー教育を小学校だけでも受ければ自然に当たり前に行動できる人になるのだろうか・・・
- 2006/02/17(金) 20:08:52|
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まず、
前回の続きで新約聖書のヨハネ福音書の11章~の読み合わせ。
続いて「
いか超」の読み合わせ。
P113~P122まで読み進めることができた。
◆神秘修行の諸条件
●第一の条件。肉体と精神の健康に留意すること。
●第二の条件。自分を全体生命の一部分と感じること。
●第三の条件。自分の思考と感情が世界に対して自分の行為と同じ意味を持つこと。
●第四の条件。人間の本質が外観ではなく内部に存するという観点を獲得すること。
●第五の条件。一旦決心した事柄は忠実にこれを実行する。
●第六の条件。自分に向ってくるすべての事柄に対する感謝の気持ちを養うこと。
●第七の条件。人生を以上のすべての条件にふさわしく形成すること。統一すること。
●新たな生命が促進される場合に限って、破壊に手をさし伸べることが許される。悪意に対するもっとも正しい戦い方は善意を実現することにある。無からは何も生じえないが、不完全なものはより完全なものに転化されることができる。
●成功への愛ではなく、努力への愛だけが進歩を促す。
(所感)
行為、言葉、感情、思考が同じレベルで世界に影響を与える・・・。といっても、自動的に考えたり感じたりしてしまうので、少なからず、それを行為や言葉にすることは慎重にしなければと思う。慎重にすることで、考えたり感じたりする原因が判明すればよりよくなるのでは・・・とは思う。
「精神不在の形式が無に等しいように、自分の形式を生み出せない精神があるとしたら、それは無力な精神」自分の形式を生み出せているのか?とも思う。生み出せていれば、もう少し経済的に良くなるのではと思ったりもする。精神が不在なのかな?
- 2006/02/10(金) 16:13:22|
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まず、
前回の続きで新約聖書のヨハネ福音書の10章~の読み合わせ。羊飼い(キリスト)が「自我」で、柵の外が「自我」に目覚めていない人。柵の中が霊我以上の状態。柵の中が羊が羊飼いによって自我に目覚めた人々。だが、羊飼いの門を通らずに入るのは盗人(異端者?マガイモノ?)。
続いて「
いか超」の読み合わせ。
P102~P113まで読み進めることができた。
●常に怒りを克服しつつ、恐怖、迷信、独断、虚栄心、功名心、好奇心、饒舌や、差別する態度も克服しなければならない。
●「私が他人と異なる意見をもっているかどうかはどうでもよい。大切なのは、私の方から何かをつけ加えたら、その人が自分で正しい事柄を見出せるようになれるか、ということだ」一切の神秘修行の
主要手段の一つである温和さを獲得する。
●「ふさわしい成熟に達したなら、いつかはそうあるべき自分になるであろう」恣意的に高次の力を引き寄せようなどとは決して思うな。この教えを守らねば、どんな努力もむなしい。
●子供のころ、都会の中で過ごした人は、
バガヴァッド・ギーター
、
ヨハネ福音書
、トマス・ア・ケンピス(
キリストにならいて、
キリストにならう)で魂の養分とするべきであろう。
◆神秘修行の諸条件
●神秘修行の諸条件は確かに厳しいが、しかし苛酷ではない。(斉藤一人さんの言葉「やってやれないことはない。やらずにできるわけがない。」を思い出してしまう)
●第一の条件。肉体と精神の健康に留意すること。完全な霊的健康のための努力である。不健全な心情生活と思考生活はどんな場合にせよ、人を高次の認識への道から遠ざける。
(所感)
結構当たり前のことが書かれているし、さすがに実践的観点だけあって、日常思い当たる点が多い。分かりやすいだけに、誤解しやすいという気もする。「その人が自分で正しい事柄を見出せるように」あくまで、他人を変えることはできない。変える事ができるのは自分だけである事をわきまえていないと押し付けになる。
シュタイナー関係に分裂が多いのは、「温和さ」が足りないのではないか?とも思うが、お互い妥協できないところまで行くのは、表面的な「温和さ」は偽りであると感じているからだろう。しかし、分裂までいくのは、両方とも何かしら間違っているからではないだろうか。どちらかが真理、または、真理を真に求めて努力していれば「温和さ」を発揮でき(自分に非がある部分を認め)、分裂までは行かないのではないかと思う。正しい正しくないよりは、協調できる点(真理、目的、求めるもの)に対して協力することはできると思うのだが。
読めば読むほど、同じようなことが書いてある気もするが、色々な角度で書いてあるという感じである。それだけ誤解を受けやすいのだろう。(一言で言えば、「忍耐、努力」ともいえるが、これだけだと誤解が生じる。自分を殺した「忍耐、努力」はむなしい)
- 2006/02/02(木) 17:23:01|
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まず、
前回の続きで新約聖書のヨハネ福音書の9章~の読み合わせ。今回は特に関連はなかった。
続いて「
いか超」の読み合わせ。
P87~P102まで読み進めることができた。
●第二の試練「水の試練」=神秘文字を解読し正しく遂行できるまで繰り返される。自制心を育成しなければならない。
●第一の試練「常識を持たねば、どんな歩みも空しい」、第二の試練「すべての偏見をすてねばならぬ」という文字が門前に記されている。
●第三の試練「風の試練」=「高次の自我」を見出し、躊躇、疑惑なく、決意を速やかに固める。霊の現存を証明すること。
●「新しいものを古いものによって評価することではなく、まさに新しいものを洞察するためにこそ経験が利用されねばならない。」低次の記憶に邪魔されることなく、いつでも霊的な働きに集中できる方法=「忘却の飲み物」
●「記憶の飲み物」=高次の秘密を常に精神の中に生かし続ける。
◆実践的観点
●焦ってはいけない。忍耐強く、高次の存在たちが悟りを得るのにふさわしいと見放すまで、静かに待ち続ける。
●侮辱されても、「私の価値が変わるわけではない」という思考内容が立ち現れ、平静な心をもって、別の誰かが不当に侮辱されたのを、とがめるように対応できるようになる。
(所感)
秘儀参入をしても、日常生活はなんら変わることなく続けられる上、多分、効率も上がるのだろう。日常生活の普通の試練が、秘儀参入の試練の一部となっているのも面白い。だが、準備と開悟ができないと、秘儀参入にはならないようだ。逆にできていれば、日常生活が秘儀参入の試練となるのかな?と思ったりする。
- 2006/01/26(木) 21:27:03|
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まず、
前回の続きで新約聖書のヨハネ福音書の8章~の読み合わせ。
「指で地面に何か書いておられた」というのはカルマの意味らしい。
続いて「
いか超」の読み合わせ。
P82~P88まで読み進めることができた。
●「準備」と「
開悟」を正しく続けたものは「試練」が当然の結果として現れる。
●第一の試練「火の試練」=「霊的燃焼過程」
自己信頼、勇気、不撓不屈の精神を健全に育成する努力を重ね、苦悩、幻滅、失敗を魂の偉大さ、特に内的平静と忍耐力とをもって堪えぬく術を知ること。
●「火の試練」のあと、「隠れた」(オカルト的な)文字(神秘文字)を解読しなければならない。(→見るものすべてに書かれているような文字なのだろうか?)
●「人類と世界の助力者たち」=意識することなしに神秘文字の中にある生活上の基準を果たす人たち。神秘学徒との相違は、意識的に全体の関連を考慮しつつ行うか否かに過ぎない。
(所感)
霊界参入すると試練が沢山次から次へとくるようだ。シュタイナーは神秘文字がそこら中に見えたということか・・・。エクササイズするのを忘れている・・・。
- 2006/01/20(金) 13:34:28|
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まず、
前回の続きで新約聖書のヨハネ福音書の6章(60~)7章(~53)の読み合わせ
「わたしを捜すが、見つけることはできない。そしてわたしのいる所にくることができないだろう」というのは、物理的な意味か?精神的な意味か?これに関連して主催者の方が以下の部分を思い出したそうだ。
18章(4~)「だれを捜しているのか」「ナザレのイエスを」「わたしが、それである」と言われたとき、彼らはうしろに引き下がって地に倒れた。
なぜ、引き下がって倒れたのか?よくわからない。よほど神々しかったのだろうか?
続いて「いか超」の読み合わせ。
P75~P81まで読み進めることができた。
●自分の経験の中から、要求している人物を思い浮かべる。欲求がもっとも生きいきしており、その欲求が満たされるかどうかわからない時期を思い出す。それに沈潜して集中し、ひとつの感情がわき上がる。普通は虚しい繰り返しをするが忍耐強く何度も試みる。その感情を自分の魂で体験できるようになれば、欲求という観察された魂のいとなみのいわゆるアストラル的な姿を感じられるようになる。感じられても誰にもしゃべらず沈黙して続ける態度が重要。
●自己を肯定しようとするすべての人間の意思を無制限に評価し、その意思を人間に内在する聖なるものと見れるように自分を教育すること。畏れと恥じらいの感情でみたされていなければならない。
●危機に直面しても「私が今不安を感じたとしても何の役にも立たない。不安を感じてはいけない。何を為すべきか、だけを考えればよい」
●勇気と大胆さがなければならない。失敗をおそれてはならない。「また失敗してしまった。しかしそれを忘れてしまおう。そして何事もなかったように、新しい試みを始めよう」
(所感)
後半は分かりやすい言葉であるだけ、違う解釈ができそう。欲求している人に沈潜するのもやってみよう。虚しい繰り返しになるかもしれないが。
前回・
前々回の種や遡行は、するのを時々忘れる・・。今年の「いか超」はこれでおしまいで来年に再開。
- 2005/12/11(日) 19:25:27|
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まず、新約聖書のヨハネ福音書の6章(1~59)の読み合わせ
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲むものは、永遠の命があり、わたしはその人を終わりの日によみがえらせるであろう。」
ゴルゴダの秘儀によってイエスの血が地面に落ちたとき、自我が入った(確か
ヨハネ福音書講義に書いてあったと思う)ので文字通り、地球上で出来る食べ物のこと?それとも精神的な意味?
「いか超」読み合わせ
前回からの続きでP65~P74まで読み進むことができた。
●何度となく、修行の持続力を失わないための注意がでてくる。よほど、効果が分かりづらいのであろう。あせらないで、地道に続けること。
●「私自身の感情や思考には最高の秘密が隠されている。これまで私はそのことにまだ気づくことができなかった。」
→具体的な一つの方法
植物の小さな種を目の前に置き、思考を集中的に行い、それを通じて一定の感情を呼び起こす。
→実際してみると
思考をしていると、つい他のことが頭をよぎりそれに気をとられる。気をとられないようにする努力が必要。いかに普段の生活で幻想を考えている事が多いかわかる。
思考を通して、自分の記憶や経験に関係ない感情が呼び起こされる。1日5分でもいいのでやると少しずつ変わってくるらしい。
●植物の中には、私がこの眼で見ることのできない何かが存在している。
●修行をすることで、日常生活が変わることはない。今までと同様に健全に送れなければならない。
(所感)
種のエクササイズは毎日してみようかと思う。(前もそう思った気がする。つい忘れてしまう・・。忘れても、自分を責めずに思い出したときやろう。)
- 2005/12/02(金) 01:23:01|
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「
いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」(略して「いか超」と私は呼んでいますので、今後そのように表現します。長いですから)の勉強会に初参加しました。
いずみの学校の父母有志が集まって、週一回の勉強会をしている。
旧約聖書のヨハネ福音書を最初に読む。知らなかったので全然、頭に入らなかった。来週持参しよう。
他の皆さんは、松浦 賢さん訳の本を読んでいました。
いかにして高次の世界を認識するか(「いか高」になってしまう・・・)
だいぶ訳が違いますが、内容は大体同じでした。(当たり前ですが)
私の本は、
シュタイナー選集第二巻の「いか超」であるため、ページはその本で今後も表します。P63~65まで読み進むことが出来た。(次回までにそこまではもう一度読まねば)
読んだところで、主催者の方から、修行の一つである「遡行」の参考に、「
神秘学概論」のP349~353を読んで頂いた。
「遡行」は、一日の終わりに、1日を回想するのであるが、それを時系列で回想するのではなく、逆に回想することが重要。具体的には、眠る前なので横になりながら実行しようとする人がいるが(私もそうしていた)横になってしてはいけない。眠ってしまうから。毎日、少しでも、印象に残ったことだけでも、「遡行」することを勧める(本来は、1日すべてを「遡行」する)。オートマティックに習慣(固定概念や感情)で動くことがなくなり、何が起ころうが、重要なことか?どうでもいいことか?が瞬時に判断つくようになるそうだ。(自分を含めた状態で、客観的に見れるようになるのでは。思考と感情の分離の訓練であろう。)
具体的に、どうやるのかを色々とシェアしている内に、これは、成功者の法則である「成功している状態を具体的にイメージする」のと同じではないかとなった。「成功している状態」を出来るだけ細かくイメージできれば出来るほど、成功する可能性が高くなると言われるが、それは、成功した状態(未来)から現在まで、できるだけ細かくイメージすることで、「遡行」することと同じではないか?何か実現したいのであれば、「遡行」をして、あせらず・期待せず実行すること。
(気になった言葉)
「いか超」のP33「如何なる理念も理想たりえぬ限り魂の力を殺す。しかし如何なる理念も理想たりうる限りはすべてあなたの中に生命力を生み出す」
- 2005/11/24(木) 15:39:05|
- いか超 勉強会|
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