シュタイナー、したいなあ

シュタイナーについて思うこと

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2007-7-5「自由の哲学」読書会

「自由の哲学」の勉強会を、毎週、毎週、まとめよう、まとめようと思っていたが、暇を見つけられないまま現状に到る。(シュタイナー自伝の感想も一番重要な部分をまとめてない・・・。)まとめきれなくても、思いつく限りメモしておく。

●「思考内容こそ感情の父なのだ。」P37
→思考内容から感情が作られる?「母」とはいっていないから、作られるわけではないのか?感情とは思考内容と同類?

●「哲学者が最後に生じたものをその出発点にしようとするときにのみ、彼は目標に到ることができる。そして宇宙進化がもたらした最後のものこそ、思考にほかならないのである。」P68
→思考が、最後にできたものなのか!?

●「ただその際、「思考像を持つこと」と思考内容を思考によって作り上げることとを混同してはならない。」P70
→思考は意思されたもの。意思されたものでなければ思考像。

●「理念とはより内容豊かな、より飽和した、より包括的な概念であるにすぎない。」P74
→「いか超」の「如何なる理念も理想たりえぬ限り魂の力を殺す。しかし如何なる理念も理想たりうる限りはすべてあなたの中に生命力を生み出す」という言葉を思い出す。

●「概念と観察とが出会い、お互いを結び合うのは人間の意識という舞台においてである。」P76
→おお!概念と観察(知覚)と意識の関係が明確に書いてある。「シュタイナー用語辞典」の意識のところに記載されている「過去から未来へ向かう無意識の表象の流れ(エーテル体)と、未来から流れてくる心魂内の欲望の流れ(アストラル体)が交わることによって意識が発生する。」と関係あるだろうか?「オカルト生理学」にもなんらかの記載があった気がする・・・。(読み直したい・・・)

●「だから思考を単なる主観的な活動であると解することは許されない。思考は主観と客観の彼方にあって、この二つの概念をすべての他の概念と同じように作り上げるのである。」P76
→思考を主観と思いがちだが、そうではない様子。思考は主観でも客観でもなく・・・人間共通の真理?

●「批判的観念論は知覚内容との関係について、まったく見通しのきかないところに立っている。」P96
→批判的観念論は、それ自身の定義によって、自己矛盾している論なんだなあ・・・。でも、多分、すべてが間違っているという分けではなく、ある部分は正しい部分があること後々出てくるのだろう。(この辺を理解しながら読まないと、分けが分からなくなる・・・。否定していたのに肯定されるのだから)

●「われわれの内なる思考は、われわれの特殊存在を覆い、われわれを宇宙の普遍存在に結びつける。その結果われわれの中には認識衝動が生み出される。思考を持たぬ存在はこのような衝動を持たない。」P110
→普遍存在と結びついているから認識したい(概念と知覚を結びつけたい)と思うということか?それには思考により概念を生じさせなくてはならないというか作りたいと思うのか?それから、知覚と結びつけることでようやく認識できる。

●「普遍的な統一宇宙をわれわれに確信させてくれるのは、人間的=人格的な神でもなければ、力や素材でもなく、また(ショーペンハウアーの)盲目的な意思でもない。」P110
→なにについて論じているかがこの一文でようやく理解できた。人間、ひとりぼっちではいられない。何らかの共有をしたがる。その共有するものは、神(宗教・同じ信仰)でも、物質的な話題でも、ただ共に行動することでもない。

(本日の読書会後での論議)
正しい概念をもてないで育った人(子供の頃に、自然を体験しないで育った人とか、シュタイナー教育を受けなかった人とかで、引きこもりの人や、躁鬱になった人とかなど)は、シュタイナーの言う思考ができるか?との話になった。この勉強会に参加しているのは、シュタイナー学校の父母なので「無理ではないか」との結論になるかと思いきや、たとえ、自然などを感じずに、ゲームや物質的な環境に育っても、時間はかかるかもしれないが、シュタイナーの言う思考(純粋思考)はできるのではないかとの結論になった。それなら、「シュタイナー学校はなくてもいいの?」と聞くと、「あってもいい」と。シュタイナー学校に通った子供であれば、純粋思考が出来やすいとは思うが、通わなかったからと言って出来ないわけではないとの考え。この考えには、賛成したい気持ちは大いにある。なぜならば、私自身がシュタイナー学校に通ってないが純粋思考をしたいと願っているから。思考ならば、努力というか何度もすればできそうな気がするというのもある。しかし、「治療教育講義」に、「さて、大人のいわゆる精神病は、多くの場合、この連続講義の中でも取り上げる諸理由から、完治することは困難です。たとえ霊学の観点を導入できたとしても、少なくともきわめて困難な状況を通過しなければ、完全な治療は期待できないでしょう。」P54と言っている。この場合、精神病という顕著に現われる精神的な障害は大人では完治できないということだろうが、自分の嫌な癖などを簡単に直せないのと同じなのではないかとも思う。いわんや、通常意識にものぼらない「概念」をなんとか出来るものだろうか?と思ったりする・・・。(当たり前と思っていたりして疑問にも思わない「概念」が沢山あるのではないかと思ってしまう。それが純粋思考へと到れない原因ならば、道のりは遠い。)

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  1. 2007/07/06(金) 03:08:57|
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「自由の哲学」読書会

自由の哲学
自由の哲学 ルドルフ シュタイナー (著), 高橋 巌 (翻訳)


2007年4月から、毎週「自由の哲学」の読書会がはじまった。

シュタイナー自身が、神秘学への最良の入門書と考えていた。シュタイナーは、晩年、「自分の他のすべての著作がすたれても、この本だけは残るだろう」と言うくらい重要な本。

「ぜひ読まねば」と思った3年前。読んだが、半分ぐらいで挫折した。

読書会だと、結構読める・・・。(この3年で成長したのか?一人では読めないのか?)

この本はエーテル的に書かれていると言われている。そして、なにより、思考しながらでないと読めない本であるというのだ。

確かに、ちょっと、意識が他に向いてしまうととたんにわからなくなる。(そのまま続けると眠くなる)

なので、この本の読み方は、一行づつ納得して、把握した・理解したという感じを確かめながら読まないとならない。たとえ、根本が理解できなくても、自分の中で自分なりに消化した感じを持ちながら。(←これが思考していることになる。)内容を受動的に受け取るのではなく、思考して、自分の中に自分なりの構築された物ができなくてはならない。よって、読むのに時間がかかる・・・。

読書会は、意識が他に向いても(このこと自体が思考していない証拠なのだが。鬼火・・・)、他の方の疑問などを聞いていると、意識が戻されるので一番最初に、全文を読むにはこの方法がよいのかもしれない。

第三章まで読んだ時点での感想というか、読むための注意する点が少し分かった。
●「・・・・の中には誤謬がある」というような表現は、「・・・・」がすべて間違っているわけではなく、正しい部分もあるけども、一部間違っていると解釈しなくてはならない。なので、どこが正しくてどこが間違っているかを把握しながら読み進めないと、さっきは間違っていると書いてあったのに、今度は正しいとか書いてあるとか出てきて、わけがわからなくなる。なので、思考をしっかりして自分なりに判断しなければならない。

●3つの理論について考察している。この違いを意識して読むと分かりやすいかもしれない。

以上のことは、他のシュタイナーの本でも同じように注意しなくてはならないとは思うけど。

気になったらメモを時々残そうと思う。(毎週だと、イヤになるので)
現状の理解はこんなもの

  1. 2007/06/01(金) 12:40:37|
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